イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

空談の原理的構造:「平均的な了解可能性」の概念をめぐって

 
 ハイデッガーによれば、〈ひと〉が語り合う言葉のやり取りは、「空談」というあり方によって特徴づけられている。空談とはどのような言葉のあり方をいうのか、原理的なところにまで遡って考えてみることにしよう。
 
 
 いま、Aという存在者について、「AはBである」という言明が広まってゆくとする。AとBには、日常のうちで語られるさまざまな話題を代入していただきたい。ここでは、空談のあり方を形式的に見定めるという関心から、抽象的な項のままで話を進めることとする。
 
 
 人間の世界では、一度「AはBである」という言明が広がりはじめると、その拡散には際限がなくなってゆく。デマや虚偽の情報が広まってしまう場合もあるが、正しいか正しくないかには関わらず、とにかくこの、「AはBである」が広まっていったとしよう。ハイデッガーによれば、この時点で言葉のやり取りはすでに、いくぶんかは「空談」と化してしまっているのである。
 
 
 どういうことか。語って広めている人々は「AはBである」を、ただ何となく、平均的な了解可能性において理解しながら、ひたすら広めていっている。つまり、Aは本当にBであるのか、ひょっとしたらBではなくてCなのではないかなどと真剣に検討することのないまま、「AはBらしい」という言葉だけをまねて伝え、広めていっているのである。
 
 
 「AはBらしいよ」「AはBだそうだ」と言っているうちに、ある人などは、「いやあ、Aってさ、あれ、Bなんだよね」と気取って話し出したりもするかもしれない。もちろん、この人はさも見知っているかのように「あれ」などと言っているが、Aのことを実際に見てきたわけではないのである。そうこうしているうちに、だんだん実際にAのことを見知っている気になってきた人々は、声を揃えて「AはBだよ!いいね!」と言い出し、最終的にはただ「いいね!」「いいね!」の嵐だけが、際限なく広まってゆく……。
 
 
 
空談 了解可能性 ハイデッガー 実存 アポファンシス デマゴギー
 
 
 
 ハイデッガーのいう「空談」を理解する上で重要なポイントとなるのが、「平均的な了解可能性」という概念である。つまり、〈ひと〉は語られる存在者についてただ何となく、大まかに理解している。大体のところはわかっているような気がしているならば、それだけで、語って広めるには十分なのである。
 
 
 この「平均的な了解可能性」なるものは大抵の場合、大まかに見れば正しいのであろう。つまり、Aは語って広められている通り、実際にもBなのであろう。ただし、本当にAがBであるのかは、実際には不明である。〈ひと〉は、「ひとがそう言うからにはそうなのだ」と思って、自分自身ではその言葉の真偽を確かめることなく話を広めていっているからである。あるいはもっと極端な場合になると、自分では一度も見たこともないのに「Aは間違いなくBだ」と心の底から確信しながら、辺り構わず、空談を拡散しまくってゆくのである。
 
 
 デマゴギーの問題はかくして実存論的に見れば、空談の問題に帰着する。ただし、哲学的に見てより高度かつ重要であるのは、「たとえAがBであるという言明が実際に正しいとしても、言葉が空談と化している限り、〈ひと〉は本当にAに出会っていると言えるのだろうか」という問いの方なのではないか。
 
 
 空談においては、Aの「Bであること」はただ大まかに、平均的な了解可能性において理解されるにとどまっている。すなわち、言葉は「Aは、紛れもなく確かにBである」という仕方で覆いをとって発見しつつ、聞く人をAという存在者に真正な仕方で出会わせる代わりに、「Aという話題については、『Bである』ということで片がついている」と言い聞かせてしまうこともありうるわけである。この場合、言葉は、BであるところのAという存在者を真正に開示しているとは言えないであろう。逆説的なことではあるが、言葉は「Bである」という真なる見せかけによって、「実際にもBであること」を人間から隠蔽してしまっているとも言えるのである(大まかに見れば正しい言葉によって真実が覆い隠されてしまうというのは、高度ではあるが、非常に注目すべき事象であると言えるのではないか)。
 
 
 ハイデッガーによれば、日常性における言葉のやり取りは、常に空談と化してゆく傾向を持っている。すなわち、上に述べたことを別の仕方で言うならば、「見えるようにさせる」(アポファンシス)という本来の働きを喪失しつつ、その働きの見せかけあるいはすり替えとして機能しながら、ただ自分自身を拡散させてゆくだけのものへと変容してしまう傾向に付きまとわれているのである。私たちはこの空談なるもののあり方について、もう少し哲学的に議論を詰めてみることとしたい。