イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学者は、何によってソフィストから区別されるか

 
 空談なるものが一度広がってしまうと、もはやそれを押しとどめることはできない。ハイデッガー自身の言葉を引いてみる。
 
 
 「語られているものそのものは、よりひろい圏内へと拡散し、権威的な性格を帯びることになる。ひとがそう言うからにはそうなのだ、ということだ。そのようにまねて語り、語ってひろめることにあって、すでにはじめから地盤に立ったありかたが失われていたものが、完全に地盤を失ったありようにいたる。」(『存在と時間』第35節より)
 
 
 〈ひと〉は、自分が〈ひと〉と同じように振舞っているかどうかを気づかう。この場合で言うならば、〈ひと〉が注意を払うのは「いま注目の話題についていけているかどうか」なのであって、「話題になっている事柄自身を、真正な仕方で理解しているかどうか」ではない。
 
 
 そして、話題についてゆく、というだけならば、平均的な了解可能性だけで十分なのである。つまり、そこでは大体どのような語彙が話されているか、その事柄について、〈ひと〉によってどのような評価がなされているか、そして、〈ひと〉はどのような気分の下でその話題に反応すべきか、等々。空談が広められてゆく過程で、この平均的な了解可能性を越え出るような理解は必然的に、切り捨てられてゆく。
 
 
 この時に、真理論の観点からすると注目すべきことが起こる。すなわち、〈ひと〉は語られていることと現実そのものとを、不可避的な仕方で取り違えるのである。
 
 
 平均的な了解可能性はいわば、現実なるものの非常に大雑把なコピーであって、色々な点において歪められたコピーであることさえも稀ではない。しかし、「ひとがそう言うからにはそうなのだ」の力はまことに大きいものなのであって、数の力は、人間の抱く現実感覚をも圧倒する。「ひとがそう言うからにはそうなのだ」は、いま自分が耳にしている(あるいは、文字という形で目にしている)のは、まぎれもない現実そのものなのだという感覚を植えつける。かくして、空談においては、話題になっている当の存在者との真正な関係性は切断され、失われているというのが、この現象に対するハイデッガーの見立てである。空談とはこの意味からすれば、〈ひと〉がその中で互いに言い聞かせ合いながら没入している、現実そっくりのヴァーチャル・リアリティのようなものであるとも言えるであろう。
 
 
 
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  〈ひと〉は空談によって、語られていることと現実そのものとを取り違える。この論点に絡めて考えてみるとき、私たちには、哲学者とソフィストという昔ながらの概念対についても改めて考えなおす機会が与えられると言えるのではないか。
 
 
 ソフィストとは人間を〈ひと〉として取り扱い、〈ひと〉として罠にかけようとする者のことである。すなわち、「ひとがそう言うからにはそうなのだ」の強大な力を利用することによって、〈ひと〉の思惑を操作する術策を身につけた人こそは、ソフィストの名にふさわしい。彼らの狡猾なまなざしは事柄それ自身よりもはるかに、〈ひと〉に向けられている。すなわち、数の力に容易になびいてしまって、自分自身ではほとんど考えることなく際限なく語って広めるところの、〈ひと〉の思惑にこそ向けられているのである。
 
 
 反対に、哲学者とはこの意味からすれば、人間に対して、真に人間的であると言えるような仕方で接する者のことである。彼あるいは彼女は人々に、〈ひと〉の言うことはそのままにしておきなさいと教える。「彼らは彼らのおしゃべりを、空談を続けるであろう。だが、君自身はどうなのか。君自身は、そんなおしゃべりには根本のところでは意味などないと、知っているのではないのか。」哲学者の語りはその本質からして、自分自身でものを考えようとする人間に向けられている。すなわち、その語りは〈ひと〉にではなくして、他の誰でもない自らのまなざしで世界を見つめようと努める、すべての真摯な人間に向けられているのである。
 
 
 注意しておくべきは、空談とは特定の人々の語りだけが陥ってゆく可能性などではなく、むしろ、すべての人間の語りがそこへと落ち込んでゆく可能性のある、抗いがたい傾向として捉えられているという点である。〈哲学者〉と〈ソフィスト〉という対立も固定した属性であるというよりは、同じ人物が時と場合によってはその両方を体現することもありうるような、実存の二つのあり方にほかならない。これが空談で、あれが真正な語りだなどという風に指し示し、確定することもできず、言葉を語り、聞き取るという行為は、この二つの可能性のうちで常に揺れ動いていると言えるのではないか。この意味からすると、真正に語ることは常に、空談へと落ち込んでゆく危険に抗するような仕方で掴み取られなければならないと考えるべきであろう。