イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「驚くことのフェイク」による誘惑:好奇心の原理的構造

 
 「空談」に続いて、〈ひと〉のあり方を示す現象である「好奇心」の内実を探ってみることにしよう。この現象についても、すでに見た真理論の裏面として事柄を見わたすという観点が、非常に重要である。
 
 
 さて、現存在(=人間)であるところのわたしが今、仕事や作業を終えて、義務から解放されているとしよう。わたしは何の気になしにスマートフォンiPadをいじって、「何かないかな」とぼんやり思いながら、情報やコンテンツが流れてくるのに身を任せるかもしれない。この際にわたしがたとえば、ある存在者Aをめぐる記事なり発言なりに出会ったとする。
 
 
 注意しておくべきは、この時わたしがAについて「なるほど、AはBだったのか!」といったように、しっかりと何かを学んだり出会ったりするならば、ハイデッガーがここで言う「好奇心」の現象が発生するわけではない、という点である。ややこしい話にはなるが、私たちは「好奇心が旺盛であるのはよいことだ」といったような言い方で、この語を肯定的な意味で用いることもある。そして、このような意味で「存在者としっかりと出会うこと」については、ハイデッガーはNOとは決して言わないのである(cf.余談ではあるが、現代文明を離れて山奥に住むことの方を好んだハイデッガーであっても、もちろん新聞も読んだし、たまには映画も見ていた。晩年近くなって、彼のもとを訪れた手塚富雄氏の「アキラ・クロサワの『羅生門』は見ましたか?どうでした?」との質問に対して、「面白かったよ…!」と力強く答えたという、ちょっと意外なエピソードも残っている)。
 
 
 では、どんな時にハイデッガーのいう「好奇心」は発生するのだろうか。「好奇心」の現象は、存在者Aにしっかりと出会うかわりに、ただ当座の気晴らしとして、Aのもとをせわしなく通り過ぎたり、あるいは、Aをただ単に面白おかしいだけの「ネタ」の一つとして消費したりする時に発生してくる。このような時、わたしはAのもとにしっかりととどまり、Aと出会うかわりに、ただ「A、C、D、そしてE……」と続いてゆく落ち着きのなさに身を任せてしまっているといえる。このような時には、わたしは本来的な存在可能であるわたし自身としてではなく、誰でもない〈ひと〉として、好奇心の誘惑に負けてしまっているのである。
 
 
 
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 「好奇心が求めるのは、したがってまた観察しながら滞在するための閑暇ではない。つねにあらたなものをつうじて、また出会われるものが交替してゆくことをとおしてえられる、落ちつきのなさと興奮とにほかならない。」(『存在と時間』第36節より)
 
 
 ここには何らかの客観的な基準が存在するわけではないので、存在者との真正な出会いと、好奇心による存在者の消費との間に区別をつけることは容易ではない。ただ、私たちは日常生活のうちで、たとえば「うーん、このニュースは本当に考えさせられた」とか「いやいやいや、このコメディ映画、面白すぎるでしょ!」などといったように、後から思い起こしても意義深かったと思えるような閑暇を過ごすこともあれば、「ああ、なんで今日はこんなにネットを見てしまったんだろうか。今日の俺って/わたしって、一体……」といったように、われながら後悔することもある。その意味で、ハイデッガーのいう「好奇心」の現象は現存在の日常を作り上げている、まごうかたなきリアルそのものであると言えそうである。
 
 
 哲学的に見て重要なのは、好奇心がそれによって私たちを罠にかけるところの「落ちつきのなさと興奮」とが、真正な驚きのパロディあるいはフェイクになっているという点に他ならない。
 
 
 きわめて教科書的な話ではあるが、哲学の根本感情とは驚き(タウマゼイン)である。こと哲学に限らずとも、「おお!」とか「なるほど!」といった、いい意味での驚きの気分なくしては、私たちの人生は枯れていってしまう一方であろう。
 
 
 しかし、その驚きの気分もいったん度を越して悪さをしはじめるとなると、「ただいたずらにセンセーショナルなだけ」とか「とてつもなくエゲツなくて見ずにはいられないが、多分、見ていても『うわ、エグいな……』以外の言葉は出てこない」といったものの奈落へと、私たちを引きずり込んでいってしまいかねない。この辺り、すでに述べたように「真正な驚き」と「驚きのフェイク」との間の線引きは非常に難しいので、後は個々の実存のうちで判断を下すほかなさそうであるが……。
 
 
 いずれにせよ、アレーテイア、あるいは「覆いをとって発見すること」の一種のダミーのような経験として、好奇心の現象が私たちを誘惑してくるという点は、以上の論述から明らかになったものと思う。繰り返しにはなってしまうが、〈ひと〉論は、すでに見た真理論との対照のうちで照らし出され、その内実が把握された時にこそ、この論が『存在と時間』の一部として書かれなければならなかった必然性もはっきりと理解されるといったような構造になっていると言えるのである。私たちはとりあえずこれで「好奇心」の現象については見たということにして、次の現象の方に進んでゆくこととしたい。