イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「獲得されたはずの真理が、ぼやけてゆく……。」:曖昧さの原理的構造

 
 「空談」「好奇心」についで〈ひと〉のあり方を示すのは、「曖昧さ」の現象である。今回も、この現象の原理的な構造を見わたすことに重点を置きつつ考えてみることにしよう。
 
 
 いま、ある存在者Aについて、「AはBである」という発見がなされたものとしよう。この発見は哲学、自然科学、あるいは芸術や政治・経済など、分野は問わないものとする。ただし、この発見は非常に革新的なものであって、その分野に精通している人が聞いたとしたら「何ということだ!」と驚かずにはいられないような類のものであるとしよう。
 
 
 さて、最初は狭いサークルや繋がりの中で「何ということだ、AはBなのか!」と真正な驚きと共に分かち合われていたこの発見も、いずれ報道されなければならない段階に入ることであろう。ただし、それを報道するジャーナリストが真面目な人であるならば、仮に彼、あるいは彼女がAに詳しくなかったとしても、記者の仕事の一環として勉強に励んだり、当事者にインタビューを重ねたりするなどして、「なるほど、『AはBである』とは、そういうことなのか。この感動を人々に伝えなくては……!」と大いに奮起するかもしれない。
 
 
 しかし、テレビや雑誌、あるいはインターネットのニュースなどを通じてこの発見が伝えられてゆく辺りから、事態の経過はだんだん怪しくなってくる。「へー」「なるほどねー」位ならばまだよい方であるが、「ごめん、今さらなんだけどさ、Aってそもそも何だったっけ?てへ☆」「なんかよく分かんないけど、すごいと思う」といった反応もあり、さらには「ねえねえ、この『AはBである』を発見した人ってさ、顔が関根勤に似てない?」「おい、馬鹿な話はよすんだ。そんなことを言ってる場合じゃないよこれは。ニュースを読んでるこのキャスター、よく見たら、めちゃくちゃ可愛くないか……?」などとなってくると、もはやAとは何も関係のないと言わざるをえない談話さえもが、Aの周辺で展開されてゆくことになる。こうして、真理の発見や事実の発見など、何らかの「覆いをとって発見すること」の意義がぼやけてきて、何が発見されていて何が発見されていないのかが次第に不分明になってゆくというのが、ハイデッガーのいう「曖昧さ」の現象にほかならない(話を分かりやすくするためにメディアを介したコミュニケーションの例を取ったが、同様の事象は、メディアを介さない日常の言葉のやり取りでも発生しているものと思われる)。
 
 
 
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 「日常的な共同相互存在にあって、だれにとっても接近可能で、しかもだれもがそれについてあらゆることを語りうるようなものが出会われると、ただちに、なにが真正な理解のうちで開示されているものであり、なにがそうではないかが、もはや決定不能となる。」(『存在と時間』第37節より)
 
 
 どうして、こういうことになるのか。ここには、すでに論じた「空談」と「好奇心」の機構が、大きく関わっている。
 
 
 〈ひと〉は、空談という仕方で物事を語って広めてゆく。つまり、存在者と真正に出会い、関わるかわりに、「ひとがそう言うからにはそうなのだ」の原則にのっとって、言うなれば無責任なスタンスで語りを拡散してゆくのである。このことに加えて、〈ひと〉の気分としては善かれ悪しかれ、概して真面目なものよりも気楽なものの方がはるかに好まれるので、「面白いんだったら、それでいいじゃん!」の力を押しとどめるのは、常に非常に困難であると言わざるをえない。
 
 
 さらには、そもそも〈ひと〉は真面目に物事を受け取ろうとしているというよりは、「好奇心」の姿勢で出来事を待ち構えているので、実は出発点からして、発見の意義がぼやけてゆくことは前もって保証されているようなものであると言えるのかもしれない。〈ひと〉は発見するよりは、「ネタ」として消費したいのである。〈ひと〉は驚愕して生き方そのものを変えたいのではなく、安心して笑える「今日のコンテンツ」を求めているのである。
 
 
 この辺り、きちんと他者と一緒に笑いあう時間を持って、生きていることの安心を確かめることの必要性は疑うべくもないので、〈ひと〉の機構には、人間として健全なもの(というよりも、それがなくなってしまうと、一つの社会や共同体にとって危険ですらあるもの)が含まれていることも確かである。この点については後に論ずることとしたいが、ハイデッガー本人は、『存在と時間』においては実存カテゴリーとしての〈ひと〉をその否定的側面においてしか捉えていないので、この本の議論を踏まえた上で、事象そのものに即した、バランスの取れた物の見方を獲得することは、この本の読者の一人一人に委ねられているのではないかと思われる(本の内容を超えて著者の言うことに留保をつけるというのは筆者の好む所ではないのだが、ことこの件に関しては指摘しておくこととしたい)。
 
 
 ただし、その一方でハイデッガーの主張する通り、いま論じたような「曖昧さ」の現象によって、「覆いをとって発見すること」という、真理に関わる人間の根源的なあり方が覆い隠されてしまう側面があることもまた、否定しがたいところである。鳴り物入りで登場したはずの「覆いをとって発見すること」が「覆いをとって発見すること……?」へと不可避的な仕方で変質してゆく過程を捉えたという点で、『存在と時間』の実存論的分析には非常に鋭いものがあると言えるであろう。