イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

実存カテゴリーとしての〈ひと〉:2021年を生きる私たちにとって、ハイデッガーの思考はどの程度までリアルか?

 
 私たちは〈ひと〉のあり方を特徴づける現象である、「空談」「好奇心」「曖昧さ」について見てきた。この〈ひと〉なる主題についてさらに掘り下げてゆくにあたって、次のような疑問について考えておくことにしたい。
 
 
 問い:
 2021年を生きている私たちにとって、『存在と時間』の〈ひと〉論ははたして、どのような意味を持つのだろうか?
 
 
 〈ひと〉論の主張はこれまでに見てきた議論に比べると、その主張の妥当性をなかなか検証しにくい面があることは、否定できない。確かに、〈ひと〉論において展開されている人間の日常生活の姿には、非常にリアルなものがある。しかし、私たち現存在(人間)の実存が、日常性において〈ひと〉によって支配されているというハイデッガーのテーゼは一体、どのようにして「実証」したり、「確証」したりすることができるというのだろうか。
 
 
 〈ひと〉は中性的な、誰でもない存在として人間の相互共同存在を規定しているのだと、『存在と時間』は語っている。〈ひと〉は周りの人々と自分との違いを気づかい、足並みを揃えて、平均的なあり方から逸れたりしないように、それとなく用心し続けている。こうした描写がそれらしく見えることは確かだけれども、はたしてそれを何らかの物語や主義の表明ではなく、「哲学」の言葉として語ることには、どれだけの正当性があると言えるのだろうか。ハイデッガーによれば、〈ひと〉のあり方ははっきりと目に見えるような仕方で示されるようなものではないだけに、このような疑問が生じてくることは避けられないもののように思われるのである。
 
 
 つまりは、こうである。『存在と時間』の〈ひと〉論をたとえばオルテガの『大衆の反逆』のように、20世紀に提起された大衆文化論の一つとして読むことは可能であろうし、そうしたものであると見るならば、一つの論として非常に良くできていることは間違いないであろう。しかし、その範囲を超えて、まさしく人間の生そのものを形づくっている現実の体制として〈ひと〉の機制を捉える必然性ははたして、存在するのだろうか。2021年を生きている私たちはこの論から果たして、何を学ぶことができるのだろうか。
 
 
 
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 このような疑問に向き合うにあたっては、次のような事実に注目しておくことにしたい。
 
 
 論点:
 ハイデッガーは『存在と時間』において〈ひと〉の概念を、実存カテゴリーの一つとして提出している。
 
 
 「実存カテゴリー」とはハイデッガーが案出した、人間の実存を特徴づけるところの根本規定を指し示すための術語である。人間はさしあたり大抵の状態においては、自分自身が実存しているということの根源的な意味を、見落としてしまう運命にさらされている。したがって、人間は自らの実存のあり方を視界にもたらすために、思惟の壮絶な努力を自らに課さなければならない。実存カテゴリーとは、そのような関心に基づいて提出された、『存在と時間』の分析における鍵語の一つであるといえる(cf. ハイデッガーの思索の道のりにおいては、この語は彼が『存在と時間』を書くより以前から使われ続けていた)。
 
 
 このことは、何を意味するのか。それは、ハイデッガーが〈ひと〉の体制を、外から観察したり、客観的に実証したりできる事実としてよりも、私たち自身の実存を内側から静かに規定し、調整し、それと気づかれないうちに支配している傾向性として捉えていたということにほかならない。
 
 
 つまり、〈ひと〉の概念は「他の誰でもない一人の人間であるわたしは、わたし自身の生をいかに生きるべきか」という問いとの関連において、言い換えるならば、実存の問いとの関連において提出されていると言えるのである。従って、学問の言葉を用いて提起されている〈ひと〉の問題圏は、究極的には学問の枠組みそのものを飲み込み尽くさずにはおかないような、ある根源的な問いかけへと差し向けられている。すなわち、「わたしは誰でもない〈ひと〉として生きるのか、それとも、わたし自身の最も固有な存在可能を生きるのか。」ここにおいて、〈ひと〉論が提起する問題は外側から論じることのできる客観的な主題としてではなく、私たち自身の生の選択の問題としてリアルに迫ってくることになる。おそらく、本質的な哲学の書物というのは常に、私たち自身の実存をその思考の圏内に引きずり込まずにはおかないものなのであろう。