イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたし」がいない世界:頽落の概念について

日常性におけるわたしはそれと気づかないうちに、〈ひと〉の支配に身を任せてしまっている。このことから、わたしは、わたし自身が生きているこの世界に対して、ある特異なあり方で存在しているということが帰結せざるをえないのではないか。
 
 
わたしは日常において、〈ひと〉が楽しむことを楽しみ、〈ひと〉が憤激することに憤激する。わたしはいわば呼吸するようにして「空気を読んでしまっている」のであって、現存在であるところのわたしはそうやって、〈ひと〉の平均的なあり方をたえずそれとなく気づかっているのである。
 
 
このような実存のあり方には、〈ひと〉と同じであることの安心を与えてくれるところがあることも事実である。しかし、どうなのだろうか。わたしがそうやって〈ひと〉のあり方に身を任せてゆくたびに、「他の誰でもない、わたし自身として生きてゆく」可能性の方は同時に、少しずつ遠ざかっていっているのではないか。
 
 
わたしが仮に「自分自身の自己」なるものを持っていないとしても、世界はそのままに続いてゆくことだろう。電車は動くだろうし、街には人々が歩いているだろうし、テレビには今日のニュースが流れ続けることだろう。しかし、それは本当の意味で「わたし」と呼びうるような存在だけが、なぜか抜け落ちた世界である。〈ひと〉だけがおり、わたし自身は世界の絶え間のない流れの中で、見失われてしまっている。わたしが「『わたし』のいない世界」のうちで存在しているこのようなあり方こそ、ハイデッガーが「頽落」と呼ぶ存在性格にほかならない。頽落のうちにあっても、人間は依然として世界内存在であり続けてはいる。しかし、その世界内存在は世界のうちへと頽落してしまっているのであって、その時、世界内存在しているわたし自身の存在は、生からは抜け落ちてしまっているのである。
 
 
 
実存 ハイデッガー 頽落 世界内存在 現存在 実存論 最も固有な存在可能
 
 
 
「頽落しているものとしての現存在は、事実的な世界内存在であるじぶん自身からすでに滑りおちている。[…]現存在が頽落しているのは、それ自身じぶんの存在にぞくしている世界に、なのである。」(『存在と時間』第38節より)
 
 
「頽落 Verfallen」という語は、「落ちてゆくfallen」というニュアンスと共に理解されるべきものである。つまり、この語には「墜落」や「転落」といった意味合いが込められているのであって、わたしは頽落することのうちで、いわば世界へと墜落してゆく。墜落したわたしのもとでは、誰でもない〈ひと〉のあり方と、世界内の存在者との交渉しか存在しないかのように事態が進行してゆく。わたしはそのような仕方で、世界へと没入しているのである。日常はそれでも続いてゆくけれども、ある一つの可能性だけは決定的に失われている。つまり、現存在であるところのわたしは、「わたし自身の自己を掴みとる」という可能性からは、遮断されてしまっているのである。
 
 
「わたし」のいない世界はその一方で、目まぐるしく回転し続ける世界である。〈ひと〉と同じであり続けるためには、わたしは流れてくる大量の情報を摂取し続け、〈ひと〉の動向に絶えず気を配らなければならない。時間は飛ぶように流れ去ってゆき、世界内の出来事はとめどなく押し寄せてくる。あらゆるものが提供されるけれども、たった一つのものだけは注意深く隠され続けている。つまり、「他の誰でもない、わたし自身として世界内存在する」という存在可能だけは、まるでそうした可能性などは最初から存在しないとでもいうかのうように、見失われているのである。
 
 
反対に、もしもわたしが本来的な自己のような何かを掴みとることができるのだとすれば、その時にはわたしは、決断のうちでこの「頽落=世界への墜落」の傾向から身を引き離さなければならない。〈ひと〉の語る声が止まり、世界の時間が停止するただ中で、わたしは失われつつあるわたし自身を選択し、決定的な仕方で掴みとる。喧騒が消滅するなかで現れてくる神秘的な静けさと沈黙のうちで、声なき声としての内なる呼び声が、わたし自身の「最も固有な存在可能」を呼び覚ます。『存在と時間』の後半部はこのような可能性にこそ差し向けられているけれども、この可能性について考えるためには、その前に、それを遮断するものについて思惟しぬいておく必要がある。すなわち、実存論的分析は前もって、頽落についての考察を経ておかなければならないのである。