イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

パルメニデスの「二つの道」:ハイデッガーと決断の問題

 
 ハイデッガーは『存在と時間』第44節bにおいて、自らの議論を、パルメニデスが描き出す「二つの道」のあり方に重ね合わせている。〈ひと〉論もそろそろ大詰めを迎えつつあるが、今回の記事では、その交錯のありようを見ておくことにしよう。
 
 
 古代ギリシアの哲人であるパルメニデスが残した韻文詩の中で、馬車に乗って天空へと駆け上がっていったパルメニデスは、そこで出会った女神から「二つの道」を示される。彼は、自分自身に示された真理が、人間の知りうることの範囲を超え出るものであると信じていた。だからこそ、彼は自らの思想を、「韻文詩における女神の示し」という形で残さざるをえなかったのである。
 
 
 ① 一方の道は、「あらぬとし、だんじてあらぬとするべきであるとする道」という、不毛なる誤謬の道である。死すべき人間たちはこの思いなし(ドクサ)に囚われて、非存在の世界のうちをさまよっている。彼らは言葉を語っているが、その言葉の世界はいわば見せかけとすり替えの世界なのであって、彼らはこうして、常に非真理のうちで存在し続けざるをえないのである。
 
 
 ② もう一方の道は「あるとし、あらぬことはありえないとする道」であり、これこそが、女神がパルメニデスに対して示す真理の道である。〈存在〉が存在する。〈ある〉は電撃のように、人間を超えた存在から与えられる啓示のようにして示される。この〈ある〉に聴き従うことこそが、哲学者の生きるべき真理(アレーテイア)の道である。人々は、ドクサを語り続けるであろう。哲学者は、〈ある〉の真理に打たれるのでなければならない。
 
 
 ①と②で語られた二つの道はハイデッガーによって、「わたしは誰でもない〈ひと〉として生きるのか、それとも、わたし自身の最も固有な存在可能を生きるのか」という1927年の二者択一へと変奏される。世界への頽落によって非真理のうちへと落ち込んでいる現存在は、死へと先駆し、良心の呼び声に聴き従うことによって、〈ある〉の真理を取り戻す。この取り戻しは、何によって遂行されるのだろうか。決断によって、というのが、ハイデッガーの提示する答えである。呼び声に聴き従う人間の決断こそが、存在への開かれを、存在忘却に抗して再び開くのである。
 
 
 
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 「パルメニデスをみちびく真理の女神は、かれをふたつの途、つまり覆いをとって発見する途と隠す途というふたつの途に直面させる。この件が意味しているのは、現存在がそのつどすでに真理と非真理のうちで存在しているしだいにほかならない。覆いをとって発見する途が獲得されるのは、ただκρίνειν λόγῳ において、つまり両者を理解して区別し、その一方を採るべく決断することにあってのことなのである。」(『存在と時間』第44節bより)
 
 
 確かに、パルメニデスが語る〈ある〉の真理の射程がハイデッガーの「覆いをとって発見すること」によって十分に汲みつくされているのかどうかには、疑問を差しはさむことも可能である。『存在と時間』の後の時期には、ハイデッガー自身が、このパルメニデスの「あるはある」に対して、さらに根源的な仕方で突き入ってゆくことになるだろう。しかし、ここで確認しておきたいのは、自らの真理論を古代ギリシアの問題圏と重ね合わせることによって、当時38歳のハイデッガーがすでにして、「思索者ハイデッガー」としての道を切り開き始めていたという事実の方である。
 
 
 パルメニデスの「二つの道」を決断の問題として解釈しなおすというのは、哲学者としてはまさしく離れ業というほかない芸当であると言えるだろう。単なる知識の積み重ねの次元を超えて、事柄上の根源的なつながりが見えているのでなければ不可能なアクロバットなのである。ハイデッガーの書いたものを読んでいて同業者たちが舌を巻かざるをえないのは、その読み筋の異様な鋭さなのであって、「なるほど、そう読むか……!」という衝撃の体験こそが、研究者たちがハイデッガーから目を離せなくなる最も大きな理由の一つなのであろう(ただし、勢いあまって「いくら何でも、それはさすがに強引なのでは……」という印象を抱かざるをえない時も、全くないわけではないが)。かのパルメニデスにも似て、ハイデッガーという人はいわば、電撃的な思索者なのである。
 
 
 本題に戻るならば、〈ひと〉と頽落の概念が提起する問題はかくして、最終的には決断の問題に帰着する。すなわち、「人間は、現存在として自分自身の〈現〉を生きることを、意志するのか、それともしないのか。」この決断は、存在の真理のうちへと突き入ってゆくことを意志するのか、それともしないのかと言い換えることもできるだろう。ドクサの力は、いつの時代にあっても猛威を振るい続けている。人間の生の二者択一は、このドクサの専制をそのままにしておくのか、それとも、ドクサそのものから静かに身を引き離して、自らの実存そのものを掴みなおすのかが問われる地点においてこそ極まるのではないか。この点からするならば、哲学の営みとは、ドクサとの飽くなき闘争以外の何物でもないと言うこともできるであろう。