イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「不安」の分析へ:実存の本来性という圏域への導入

現存在の日常性についての分析をたどり終えた私たちは今や、実存の本来性という問題圏へと進んでゆこうとしている。この問題圏へと入ってゆくための導きの役割を果たすのはハイデッガーによれば、「不安」の現象にほかならない。
 
 
 
 論点:
 「不安」の現象は、その後に引き続いてゆく「死」と「良心」の分析へと実存論的分析が進んでゆくための、橋渡しの役割を果たすものである。
 
 
 『存在と時間』において人間の日常性は、非本来性とも言い換えられている。人間は、ふだんの日常においては自分自身の実存を、いわば通常運転のモードでしか起動させていない。このモードにおいては、人間のポテンシャルはある一定の限度に抑えつけられたままなのであり、従って、その可能性は十全に解放されているとは言えないのである。
 
 
 ハイデッガーによれば、人間が持っている元来のポテンシャルは、この日常性の圏域から一歩進んだ「実存の本来性」の様態において、はじめて十全に解放されることになる。
 
 
 この「実存の本来性」は先の表現と対比させて言うならば、実存の例外状態モード、あるいは緊急事態モードとも言うべきものである。例外状態は、日常の生においてはそれとして顕在化してくることはないが、それにも関わらず、現存在であるところの人間が常に関わっているところの根源的な可能性として、人間のうちに潜在し続けている。
 
 
 この可能性は、「死への先駆」と「呼び声への聴従」という条件を満たした時にはじめて、現実のうちで掴みとられることになるだろう。しかし、その地点に進んでゆくためには、私たちはまず、人間の日常性が座礁し、立ち止まり、そのままでは実存を続けてゆくことが不可能となる危機的な地点において、人間の人間性を捉えなければならない。この地点こそが人間の生の例外状態的次元について、その存在を私たちに告知することであろう。そして、この地点を指し示す現象こそがハイデッガーによれば、不安なのである。
 
 
 
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 これから不安の分析に入ってゆくにあたって、まずは『存在と時間』におけるハイデッガーの探求の先駆者であるところの、キルケゴールの言葉を引いておくことにしよう。
 
 
 「[…]むしろこの際わたしが言いたいのは、不安な気持ちになることがどんなことかを知っておくことこそ、誰もが通過しなければならない冒険ではないか、ということである。なぜなら、さもないと人間というものは、いちども不安になったことがないということのために、あるいはひとたび不安のなかに崩れたことによって滅びてしまうからである。それゆえ、不安になることを正しく学んだ者は、最高のことを学んだことになるのである。」(『不安の概念』第五章より)
 
 
 通常、私たち人間の世界では、不安になることは何かネガティヴなことであり、望ましくないことであると思われている。不安が病的な状態にまで高まってしまうと日常生活にも差し障りが出てくるほどであるから、このような見方には一定の根拠がなくもないことは、言うまでもない。
 
 
 しかし、キルケゴールハイデッガーのような哲学者たちにとっては、不安の現象こそは、人間が人間であることを指し示す際立った現象なのであり、人間が本当は常に胸のうちに抱いているところの根本気分なのである。日常の生の流れは穏やかで、場合によって退屈な様相をさえも呈しているにも関わらず、人間存在は常にすでに、不安という気分に脅かされている。逆に言うならば、もしも人間であるところのわたしが〈ひと〉の支配から身を解き放ち、実存の本来性を掴みとるということが起こりうるのだとしたら、その時にはわたしは、まさしく「不安になることを正しく学んだ」ことになるのではないか。不安を避けえないものとして改めて受け取り直し、不安のただ中で生を掴みとることが、わたしがわたし自身の「最も固有な存在可能」を生きるための条件をなしているのだとすれば……。
 
 
 不安の現象が『存在と時間』の構造の全体において果たしている役割の大きさに比して、ハイデッガーがこの現象について論じているこの本の第40節の叙述は比較的短く、高度に濃縮されたものになっている。私たちは語られている主題の大きさに鑑みて、この節の分析を丁寧に解きほぐしてゆくこととしたい。それというのも、不安という根本気分は実存の非本来性から本来性への移行の橋渡しをするものであるだけでなく、まさしく「根本的情態性」として、人間の生の根源的な構造をも指し示すものだからである。不安の現象のうちにはいわば、生そのものの秘密とも呼びうる次元が注意深く隠されていると言えるのである。