イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

例外状態の政治哲学:ジョルジョ・アガンベンの思考と、2021年のグローバル秩序の現在

 
 不安の現象に本格的に足を踏み入れてゆく前に、一つの論点を確認しておくことにしたい。
 
 
 論点:
 これより後に扱われることになる「不安」「死」「良心の呼び声」の現象は、生の例外状態的次元とでも呼ぶべき領域の存在を指し示している。
 
 
 今回と次回の記事ではこの論点を、私たちと同時代の哲学者である、ジョルジョ・アガンベン(1942〜)の仕事と重ね合わせながら見ておくことにしたい。
 
 
 1995年から2014年にかけて行われたアガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトは、これまでの近代政治哲学の伝統が、政治の営みなるものを限定的な視野からしか捉えてこなかったことを明らかにした。このプロジェクトにおいては、近代政治哲学が「政治」として考えてきたものはいわば、通常運転モードにおける政治のプロセスを指し示すものにすぎなかったとされるのである。
 
 
 ホッブズからロック、ルソーにかけての社会契約論の系譜が浮き彫りにしたのはいわば、「通常運転モード」における政治体の構成の瞬間であった。ひとたび近代的な形態をとる政治体が構成されたとなると、その後には憲法や法律といった法規範が遵守されつつ、議会制民主主義のシステムが運行されてゆく。この意味からすると、近代政治哲学の伝統が取り組んできた課題とは、大きく見るならば「通常運転モードにおける近代政治はどのような手続きにもとづいて構成され、正当化され、運営されるのか」を解明することであったと言うこともできそうである。
 
 
 これに対して、カール・シュミット(異様な頭脳の閃きをもって政治哲学の暗部を容赦なく照らし出したこの人は、ヨーロッパ法学の生み出した鬼っ子とも言うべき存在であった)をはじめとする先人たちの仕事に依拠しながら行われたアガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトが問題とするのは、こうした「通常運転モード」が停止される「例外状態モード」、あるいは「緊急事態」における政治のありようであると言うことができる。
 
 
 例外状態においては、憲法や法律といった法規範の運用が宙吊りにされ、従って、通常運転モードにおいては保証されていたはずの権利や自由も政治体によって停止されることになる。政治体は、日常においては社会契約論が想定するような合法性と正当性に基づいてしか運行することはことはないように見えるが、本当は、ひとたび事が起こるならば一切の権利を停止して「緊急事態モード」へと移行するウルトラな権能を、その本質からして所持しているのである。アガンベンの仕事の革新性は、この例外状態なるものを単なる周縁的な現象とみなすことなく、むしろ、この特異な次元の方から出発して政治の営みを根本的に考え直そうとする試みであると言うことができるだろう。
 
 
 
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 さて、アガンベンは「ホモ・サケル」プロジェクトを開始した当初から、「これからのグローバル秩序は、例外状態の次元がますます剥き出しになってゆく方向で進んでゆくことになるだろう」と一貫して主張し続けていた。この予想、あるいは憂慮が今回のコロナウイルスをめぐる騒乱を通していよいよ無視しえない形でリアルなものになってきたことは、私たちの記憶に新しいところである。あくまでも、私たちがいま問題にしている論点に関わる限りではあるが、ここでも少しだけ論じておくことにしたい。
 
 
 コロナウイルスの感染拡大を前にして、ヨーロッパ各国ではまさしく「例外状態」への移行が大々的に実行された。そこでは、これまでかくも人間の自由を何よりも優先しつづけてきたヨーロッパ政治の伝統が、移動の自由や経済活動の自由、あるいは政治的発言の自由をさえも、緊急事態の名においてウルトラな仕方で実際に停止した、あるいは停止しようと試みたのである(いわゆる「ロックダウン」型の問題解決)。
 
 
 私たちの国における対応の仕方は、少なくとも法政的な観点から見るならばこれほどラディカルなものであったわけではなく、官と民とが互いに空気を読み合うことによって「緊急事態」を実現させるという、これまた別の意味でウルトラな対応策が取られることになったが、いずれにせよ、通常状態に代わって、例外状態的な意味での政治がそこで問題になっていた(なっている)ことは間違いない。哲学的に見て重要なのは、グローバル秩序において進行しつつあるこのような事態の成り行きに対して、善いとか悪いといった評価を性急に下すことであるよりも、近代的な意味における政治の営みが根本的な変容を蒙りつつある、その変容のあり方を見定めることの方であろう。
 
 
 おそらくは、こうした状況の到来をかねてから予想していたアガンベン本人も、ここまでストレートに生政治で例外状態でホモ・サケルな状況が現出するとは考えていなかったのではないかと思われるような仕方で、事態は進行している。ただし、彼が繰り返し強調しているように、今回のコロナウイルスをめぐる騒乱が政治哲学に対して提起している問題は一過性のものではいささかもなく、きわめて長い時間をかけて行われる根本的な移行(おそらくは、「近代的状況」から「現代的状況」への移り変わりとでも表現するほかはないところの移行)を目に見えやすい仕方で反映するものにすぎない。2021年を生きている私たちがいま目にしつつあるのは、21世紀型の秩序維持とでも呼びうるものが長い準備期間を経たのちに本格的な運行を開始しつつある、まさにその瞬間にほかならないと言えるのではないだろうか。すでに紙幅も尽きてしまったので、今回の論点とハイデッガーの『存在と時間』との交錯については、次回に回すこととしたい。