イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

不気味さは特定の対象を持たない:「不安」と「恐れ」との違いについて

 
 まずは古典的とも言える論点を確認するところから、議論を始めることにしよう。
 
 
 論点:
 恐れとは異なって、不安は、世界のうちに存在する特定の存在者を不安の対象として持つわけではない。
 
 
 恐れの気分について、まずは考えてみる。現存在であるところのわたしはたとえば落雷を、あるいは、逃亡中の凶悪事件の犯人に出くわすことを恐れる。この場合、恐れの対象は世界のうちに存在している存在者として、特定の方位から近づいてきてわたしを襲う可能性があるわけである。
 
 
 恐れの気分にはこのように、それが恐れるところの特定の対象が存在している。ところが、ハイデッガーによればこのことは、不安の場合には当てはまらないのである。
 
 
 不安の気分において、わたしは、何か不気味な予感を感じている。しかし、それはまさしく「何となく不安」なのであって、現存在であるところのわたしには、自分自身がなぜ不安を感じているのかがわからないのである。「何となく(この表現は文字通りに取るならば、”out of nothing”と言い換えることもできそうである)」という言い方のうちで、不安には特定の世界内の対象が存在しないという事実が、図らずも言い当てられている。正体不明なままにわたしを脅かし続けるもの、それこそが、不安という根本的情態性の内実にほかならない。
 
 
 日常においては「不安」と「恐れ」という言葉はほとんど区別されることなく使われているので、ここでのハイデッガーの議論を理解することには、少なくとも最初はそれほど実感が伴わないかもしれない。重要なポイントは、人間はいわば、自分自身の内側から不安を作り出すという点である。恐れは外からやって来るが、不安は内からやって来る。自分でも望んでいるわけではないにも関わらず、自分自身で不安を生み出さずにはいられないからこそ、不安とは人間存在を根底から特徴づけるところの「根本的情態性」にほかならないのである。
 
 
 
不安 恐れ ハイデッガー 根本情態性 世界内存在 実存 現象学
 
 
 
 「不安の〈なにをまえに〉は、世界内部的な存在者ではまったくない。[…]その[不安による]脅かしは、特定の有害さという性格をそなえていない。[…]不安の〈なにをまえに〉はかんぜんに未規定的なのだ。」(『存在と時間』第40節より)
 
 
 「わたしは時々、不安でたまらなくなるんです。でも、その理由がわからない。わたしはなぜ、いつもあんなにも不安なんだろう……。」不安が日常生活の維持を困難にするほどまでに高まってしまうことのある人たちと話していると、このような発言を耳にすることが往々にしてある。彼女たち(このような不安に脅かされるのは、女性の場合がほとんどである)はいわば自分自身でも正体がわからない気分によって、その存在を内側から脅かされているのである。
 
 
 私たちの多くは、これほど極端な「不安」を経験することはないかもしれない。しかし、どんな人であっても、ハイデッガーの言うところの「恐れ」の範囲を超えでてしまうような「恐れ」を、対象のない「不安」が幾分かは入り混じっているところの「恐れ」を経験したことが全くないという人は、存在しないのではないだろうか。
 
 
 たとえば、ある人にとっては、食事の摂り方で自分自身の健康を害してしまうのではないかという懸念が、絶えざる不安の種になっている。また、別の人は、自分でも心配しすぎかもしれないとは何となくわかっているのにも関わらず、街中を歩いている時に、誰かに刺されるのではないかという恐れを抱かずにはいられない。他者の視線から見るならば、この人たちの恐れはそれほどまでに恐れるものではないことは確かであるとしても、当人たちにとっては、これらの問題はまさしく実存を脅かすほどの大問題である。このような場合の人間は明らかに、外を向いているように見えながら、実は自分自身の内側からやって来る不安に脅かされているのである。
 
 
 このように、日常生活においてはハイデッガーの言う意味での「不安」と「恐れ」とは多かれ少なかれ混じり合って経験されるけれども、何らかの不気味な感覚、自分自身にとって宿命的な何かとも言える感覚が増してくるほどに、ひとは根本的情態性としての不安に少しずつ近づいているといえる。私たちは、日常の場面においてはこうした気分にはなるべく蓋をするようにして近づかないでいるけれども、生きている限り、不安の深淵が完全に閉じてしまうことはない。不安は、世界内存在する人間が自らの内側から生み出すところの避けえない運命として、絶えず人間自身にまとわりついているのである。実存の本来性は、この不安をまさしくおのれ自身の運命として改めて受け取り直すところの平穏あるいは静けさとして生起するのであるが、その地点に至るためには、私たちはなおも不安の内実に分け入ってゆかなくてはならない。一歩一歩、現象学的分析の歩みを進めてゆくこととしたい。