イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

不安が露呈させるのは、「剥き出しの生」にほかならない

 
 ハイデッガー自身の言葉を手がかりにして、さらに不安の分析を進めてゆくこととしたい。
 
 
「不安の〈なにをまえに〉は完全に未規定的である。[…]手もとにあるものや目のまえにあるものにかんしては、世界内部的に、その適所全体性が覆いをとって発見されるけれども、そうした適所全体性は、そのものとして総じて重要性を持たない。適所全体性は、それ自身のなかに崩れこむ。世界は完全な無意義性という性格を有することになる。」(『存在と時間』第40節より)
 
 
現存在であるところのわたしは、その日常性においては、わたしの世界が形づくる存在者のネットワークのうちで場所を得ている。家や仕事場、自分の住んでいる街、あるいは、机や床やコーヒーカップ、等々。こうした存在者のうちで絶えず「自分のなすべき作業や仕事」を与えられ、さらには周囲世界に共に住んでいる他者たちにも囲まれて、〈ひと〉の一員として、世界を形づくる輪の一環となっている……このようにして、「有意義性=役に立つこと」のネットワークのうちで一定の安心を得ているというのが、人間存在の日常の姿であると言ってよいだろう。
 
 
不安はこうした安心からわたしを突き放し、その不気味さによってわたしを脅かす。不安の現象においてわたしは、なぜかは分からないけれど、今すぐにでも死ぬのではないか、あるいは、全ての終わりが避けようもなく近づいているのではないかという正体不明の予感に取り憑かれるのである。その時にしている仕事や作業が手につかなくなるほどに、この予感がわたしの全存在を飲み込んでゆく。世界が無意義性のうちに沈み込んでゆくとは、このようにして、世界のうちで形づくられる存在者のネットワークがその機能を停止して、わたしだけがたった一人で不安の中に投げ出されることを意味すると言えるだろう。
 
 
このような事態のことを念頭に置いた時にはじめて、哲学が行う現象学的分析のまなざしに対して、「世界」なるものが人間の日常において果たしている役割もはっきりと見えてくるようになる。わたしの世界は普段、わたし自身がほとんど意識することのないままに、わたしという人間をネットワークのうちに組み込むことによって「わたしが存在すること」の意義を与えてくれているのである。人間は、適所全体性のうちでの配慮的気づかい(「作業」や「仕事」)に没入することによって、人間自身の存在に疑問を持つことから免れている。世界は、「本当はすべてが虚無であり、死なのではないか?」と問うことから人間存在を遠ざけているのである。
 
 
 
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世界性を形づくるネットワークが機能不全となり、全てのものが無意義性のうちに沈み込んでゆく不安の経験は、わたし自身が避けようもなく単独化される経験にほかならない。同時に、この経験は、わたしがわたし自身の世界内存在に直面させられることになる、「自己に対する自己自身の露呈」の経験でもあると言えるのではないか。
 
 
不安とはつまるところ、わたし自身の「剥き出しの生」が意に反して開示されてしまうところの、宿命的な経験なのである。剥き出しの生とは、意味もなく、何かに守られることもなく、ただ無条件に死の可能性のもとへとさらされているような、不気味なものとしての「ただ生きている」の次元にほかならない(cf. ジョルジョ・アガンベンによれば、政治体なるものは私たち人間を、無条件に殺害可能な「剥き出しの生」(ホモ・サケル)として包摂した後にはじめて、権利を持つ主体として認知する)。
 
 
このような次元が存在するということは、私たち人間にとっては言うまでもなく避けがたいことなので、人間は、日常においてはこうした次元が存在しないことにして何とかやり過ごそうとしている。「不安」の気分、あるいは、不安が特定の存在者と結びつくことによって成立する「恐れ」の気分(前回の例を引き続き用いるならば、「わたしはこの食べ物を食べることによって、健康を害するのではないか?」「わたしは今すぐにでも、誰かに刺されるのではないか?」etc)はしかし、この「剥き出しの生」の次元をそれとして露呈させずにはおかないのである。
 
 
文化とは、剥き出しの生に覆いをかけて整える技術であるとも言えるから、私たち人間の日常においては、何事であってもきわめて穏便な仕方で事が進んでゆく、というのは真実である。しかし、その平穏にも見える日常が、実はそうしたものをすべて飲み込んでしまいかねないような深淵による脅かしのすぐ隣で営まれているということも、これに劣らず真実なのである。実存の本来性は、もしもそうした可能性が実際に存在するならば、この深淵のうちに絶えず身を置き入れつつ、同時にそこで崩れ落ちてしまうことなく「わたし自身の、まだ続いている日常」を生きることを可能にするものであるだろう。それは、その本来性を生きる人間をして「たとえ明日、世界が滅びるとしても、わたしは今日リンゴの木を植える」と言わしめるような、そうした生の静けさを可能にするものであるはずである。