イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

生はその秘密を、「恐るべきもの」の後ろに隠す:「自由のめまい」としての不安

 
 不安の気分をめぐる分析は、「可能性に関わる存在」としての人間の姿を浮き彫りにしつつある。しかし、このことは、生の経験それ自体と、それを描き出す実存論的分析の間に結ばれる、一筋縄ではゆかない関係の存在を指し示さずにはおかないのではないか。
 
 
 不安とはキルケゴールの卓抜な表現を借りるならば、その実体においては「自由のめまい」に他ならない。すなわち、不安を感じる人は、自分自身が抱え持っている可能性がその人自身にとってあまりにも大きすぎるために、いわば立ちくらみを起こしているわけである。この現象においては、その人自身に与えられている自由の可能性が、その人を脅かす深淵となって当人を飲み込んでしまっているといえる。
 
 
 ところで、このことはほとんどの場合には、不安を感じている当人には意識されることがない。つまり、不安を持つ人は言うまでもなく、「わたしは今、自由のめまいを感じている」と思ったりすることはほとんどないのであって、ただ「わたしは今すぐにでも死ぬのではないか」とか、「全ての破滅が差し迫っているのではないか」といったことを思うだけである。あるいは、大抵の場合においてはそういったことを言葉にして言い表すことさえもなく、ただ胸を締めつけるような気分による脅かしへと避けようもなくさらされるというのが、この現象をめぐる実情であると言えるのではないか。
 
 
 不安の中核には、自由の可能性が覆い隠されている。このことを見てとるのは生の経験そのものではなく、哲学のまなざしに他ならない。ハイデッガーの『存在と時間』においては、この自由は「最も固有な存在可能」という名称で言い換えられているが、このことについてはキルケゴールの場合と同様であるといえる。実存論的分析は、生の経験の細かい襞をたどり直しながら、その経験が志向しているものを当の経験自身よりも鋭くえぐり出し、それを存在論的な概念の助けを借りて明るみのもとへともたらす。哲学的思考は、生の構造とでも呼ぶほかない秩序の存在を、精神のまなざしの閃きを通して把握せずにはおかないのである(あたかも幾何学者のまなざしが、与えられた図形の特質を一瞬のうちに見てとるように)。
 
 
 
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 「不安は、現存在がそのために不安になるものへ、つまり現存在の本来的な世界内存在可能へと現存在を投げかえす。不安によって現存在は、そのもっとも固有な世界内存在へと単独化され、世界内存在はそこで、理解しつつあるものとして、本質からしてさまざまな可能性へとじぶんを投企するのだ。不安になることの〈なにのために〉によって、かくて不安は、現存在を可能存在として開示する。」(『存在と時間』第40節より)
 
 
 『存在と時間』のハイデッガーにとって、不安とは、人間の「最も固有な存在可能」が不気味なものとして姿を現してくる、その原初的かつ根源的な経験にほかならないのである。この可能性は最初、脅かしとして現存在であるところのわたし自身に襲いかかり、わたし自身を不安によって喰らい尽くす。これに対して、実存の本来性は、この深淵のうちでめまいに陥っていた自分自身を取り戻し、可能性を「わたし自身の自由」として掴みとりなおすことによって生起することだろう。
 
 
 生はいわば、その最も奥深い秘密を、「恐るべきもの」の後ろに隠しているのである。現存在であるところのわたしは当初、そこに飛び込んでいってしまったら破滅が、あるいは、死さえもが待っているのではないかと恐ろしがっていた。しかし、実存論的分析が示唆する答えはまさしく「ここがロドスだ、ここで跳べ」に他ならないと言えるのではないか。すなわち、あなたは、世界内存在するところの単独者として死ぬことを本気で覚悟しつつ、試しに一度だけ飛んでみたらどうか。あくまでも心のうちで、ただし、真実な仕方で自分自身が死ぬことを受け入れるのだ。そうすればあなたは、跳躍したその次の瞬間には「まだ生きている!」の叫びと共に、あなた自身の新しい世界を生き始めていることだろう……。
 
 
 キルケゴールハイデッガーといった先人たちがかくも法外な跳躍の可能性を提示しているということは、私たち後続の者にとっては驚きというほかないだろう。ただし、『存在と時間』の読者に求められているのは、この精神のスカイダイビングを実際に成し遂げることであるというよりも、実存そのものを賭けたこの「跳躍の中の跳躍」について、その構造と可能性とを哲学的に見定めることである。この課題を十全な仕方で果たすためには「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析をくぐり抜けなければならないが、私たちとしてはその前に、不安の現象から見えてくる人間存在の根源の姿を描き出すという課題に取り組んでおかなければならない。これまでの分析の成果を通して、現存在であるところの人間の存在の全体性は今や「気づかい」として提示されることになるからである。