イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

『ゴルギアス』が語ること:「不安」についての分析の終わりに

 
 不安の現象を通して、現存在であるところの人間の根源的なあり方はついに、「気づかい」として規定されることになった。この現象についての分析を締めくくるにあたって、次のような問いを考えておくことにしたい。
 
 
 問い:
 「あなたは『不安』の奥底にまで突き進んでいって、生のもっとも奥深い秘密を開示することを望むか?」
 
 
 日常性において、わたしは不安の気分を引き起こしそうなものから、絶えずそれとなく逃避し続けている。〈ひと〉の語りは、自分たち自身の実存を掘り崩すかもしれないような、そうした危機的な話題を注意深く避けるのである。これまでの実存論的分析の成果から見るならば、私たちの日常は、いわば絶えず「本題を逸らし続ける」ことによって営まれ続けていると言えるのかもしれない。
 
 
 しかし、どうなのだろうか。もしも、わたし自身のいまだ開示されざる「最も固有な存在可能」が、最も恐るべきものの後ろに隠されているのだとすれば……。
 
 
 すでに見たように、不安とは、その核心においてはキルケゴールの言うように、「自由のめまい」であった。不安の気分のうちには、可能性なるカテゴリーが人間に対して提示することのできる深淵のすべてが秘められている。これから先の分析が明らかにしてゆくように、おそらくは、この深淵の中核を決意して突き抜けていったところにこそ、人間の「最も固有な存在可能」が見出されることになるのではないか……。
 
 
 もっともこのことは、単なる理屈や論理の次元を超えて、有無を言わせることのない奥深い直観によって、人間自身によって常にすでに予感されていることであると言えるのかもしれない。情態性、あるいは気分なる現象は人間の〈現〉を他の何物にもましてダイレクトに開示する、それが、ハイデッガーによる実存論的分析から導かれてくる帰結の一つであった。わたしが不安を感じ、不安の気分に襲いかかられそうになるその時にこそ、日常性においては注意深く避けられ続けてきたあの「本題」が、暗示的な仕方においてではあれ問われているのではないか。こうしたことは、それを外側から証明しようと試みたりする以前に、何よりも「不安」の気分にさらされている当人にこそ告げられている根源的な事実であると言えるのかもしれない(実存論的分析の使命の一つは、前存在論的な仕方ではすでに明かされていることを、概念の力能を介して存在論的な言明にもたらすことに他ならない)。
 
 
 
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 『ゴルギアス』の最終部分においてプラトンは、かのソクラテスをして驚くべき結論を引き出させている。すなわち、ソクラテスはこの対話編を締めくくるにあたって、「ひとは不正を受けることよりも、むしろ不正を行うことの方を警戒しなければならない」と主張するのである。
 
 
 ソクラテスの主張はおおむね、次のようになる。誰かからの攻撃であるにせよ、運命による打撃であるにせよ、世の中で普通の意味合いにおいて「不幸」と呼ばれているものは、人間に降りかかることのできる真の不幸に比べるならば、実は何ら不幸なことではない。人間に襲いかかることのできるたった一つの不幸、それはむしろ、人間が自己自身であることの自由を見失い、目指すべき〈善〉を追求することから決定的に逸れてしまうこと、そのことのうちにこそ存するのではないか。
 
 
 この結論が、現代を生きている私たちの感覚には、著しく反するものであることは確かである。それというのも、ある先人も言うように、私たちの時代がもはや「剥き出しの生」以外のいかなる価値をも信じていないのであってみれば、「死ぬことを恐れるな」という言葉は私たちにとって、逆説あるいは躓き以外の何物でもないであろう。しかし、哲学の伝統は私たちに対しておもねることなく、あくまでも語るのである。すなわち、あなたが真に恐れるべきことは、死ぬことではない。実存の真の姿とは、自らに降りかかってくる不安や死のような災いによって、惨めにも押しつぶされるといったものではない。体を滅ぼすことはできても、魂を滅ぼすことまではできないものなどに、あなたのたった一度限りの生を左右されてはならない。
 
 
 こうして、哲学の伝統が私たちに語るのはかくも常識に反し、通常の意味での良識にも逆らい、そして、かくも容赦ないまでに正しいと言わざるをえないところの「自己への配慮」に他ならないのである。こうしたことが私たちと同じように弱く、絶望や苦しみをも知らないわけではなかった人々によって語られたということは、何か真に驚嘆に値する事実であると言えるのではないだろうか。人間の根本的情態性を「不安」のうちに見定め、そこから実存の本来性の分析の方へと進み入ってゆくハイデッガーの『存在と時間』もまた、哲学のこの伝統にあくまでも忠実な書物であるといえる。「不安」の現象を後にしつつ、私たちとしては引き続き、実存論的分析の歩みを進めてゆくこととしたい。