イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「理解」の究極的な形としての、先駆的決意性:実存の本来性の分析へ

 
 私たちは「不安」の現象の分析を終えて、いよいよ実存の本来性の圏域に踏み入ってゆこうとしている。「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析を開始するにあたって、まずは前もってこれから先の見通しを得ておくことにしたい。
 
 
 論点:
 「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析を経て到達される人間の「最も固有な存在可能」は、内存在を構成する契機である「理解」の究極的な形として立ち現れてくるはずである。
 
 
 「理解」の契機については、私たちはすでにこれまでの道のりの中で論じている。ここで簡単に振り返りつつ、議論を整理しておくことにしよう。
 
 
 現存在であるところの人間は、自分自身の可能性を「理解」しながら世界のうちに存在している。すなわち、現存在であるところのわたしは、わたし自身の様々な存在可能(歩くことが「できる」、単語や文を口に出すことが「できる」、思考することが「できる」etc)に関わりつつ存在しているのであって、わたしとはいわばこのような「理解=わかる=できる」のメカニズムに基づく無数の投企の中心点に他ならないのである。人間存在がこのようなポテンシャルの根源であることは日常性においては覆い隠されているけれども、根本的情態性としての「不安」は一種の「自由のめまい」として、人間のこの次元を開示する。こうしたことが、これまでの分析から得られた理論的成果であった。
 
 
 ところで、このような人間のポテンシャルにはいわば、〈ひと〉というリミッターがかけられているのだった。すなわち、ハイデッガーによるならば、日常性においてわたしは〈ひと〉が語るように語り、〈ひと〉が考えるように考えるという仕方で、誰でもない中性的な人間としての生を送りながら、世界の方へと「頽落=墜落」しているのである。実存カテゴリーとしての〈ひと〉が機能することによって、わたし自身の存在はいわば、世界のうちにある様々な存在者たちが形づくるネットワークのうちにはまり込んでしまっているわけである。「頽落=世界への墜落」とは、人間がもはや人間自身に固有な自己の可能性を見失ってしまって、自分自身に与えられている「仕事」や「スケジュール」、あるいは「シフト」の方から自分を理解するようになってゆく、そうした抗いがたい傾向を言い表そうとするものにほかならない。
 
 
 
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 こうしたリミッターを解除して、人間が自分自身を埋没させている世界のネットワークから切り離される時には、それまで日常のうちで注意深く覆い隠されていた「生の例外状態的次元」が立ち現れてくる。そして、このような次元がもたらす実存の危機において、覚悟と決意に基づいて掴みとられるものこそが、人間の「最も固有な存在可能」に他ならない。
 
 
 日常性においては、現存在であるところのわたしには、わたし自身という存在者の可能性がいまだ十全には「理解」されていないわけである。わたしはたとえば〈ひと〉がそうするように、死ぬことを何よりも恐ろしいことであると考え、この話題に触れることを無意識のうちに避けている。しかし、このリミッターが適正な仕方で解除されて、人間が自分自身の「いつの日か、わたしは死ぬであろう」に正面から向き合い、もはや死ぬことを最大の悪とはみなすことなく行為し始めるとき、おそらく、そこにはこれまでとは全く異なる世界が広がってくるのではないか。その時には、世界のみならず、世界のうちで存在している「わたし自身」の存在論的なポテンシャルもまた、制限を置くことなしに解き放たれることになるのではないか……。
 
 
 さらには、内なる呼び声という現象がある。この呼び声は普通、日常性のうちでは眠り込んでいて、時おり「良心の呼び声」として、「それをしてはいけない!」という無言の制止と共に、人間の行為を押しとどめることがあるくらいである。しかし、実存のポテンシャルを抑えつけているリミッターが解除されるならば、呼び声は「最も固有な存在可能」に向かっての沈黙の呼びかけとして、人間を「実存の本来性」へと呼び覚まさずにはおかないのではないか。この呼び声に聴き従うことが、そのまま決意することであり、決意しながら行為することであり、人間が実存における決定的な一歩を踏み出して、自分自身に固有の自己を掴みとることであるとすれば……。
 
 
 このように、ハイデッガーの『存在と時間』はこれから後、「死への先駆」と「決意性=呼び声への聴従」の分析を通して、実存の本来性を「先駆的決意性」として開示することになる。そして、この「先駆的決意性」においてこそ、不安において不安がられていた人間自身の「最も固有な存在可能」が最終決定的に解き放たれ、人間存在はついに、その人自身に与えられている一度限りの生を、本来的な仕方で生き始めるようになる……ということなのであるが、どうなのであろうか。このような道行きは果たして、単なる空想的な筋立てや恣意的な想定ではなく、人間自身の存在の根源に即した「事象そのもの」のありようを言い当てているのだろうか。
 
 
 ここから始まる「実存の本来性」の分析は、それまでの哲学の伝統が、少なくとも学問の仕事としては踏み込んでゆくことを多少なりともためらっていた領域へと果敢に切り込んでいったという意味では、『存在と時間』における議論の中でも非常に冒険的な部分に属している。と同時に、この部分こそは『存在と時間』をまさしく『存在と時間』たらしめているこの本の根幹でもあるので、私たちとしては一歩一歩、じっくりと進んでゆくこととしたい。