イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「本来性から時間性へ」:『存在と時間』におけるキリスト教哲学の痕跡

 
 実存の本来性についての分析を進めてゆく中で、私たちが読解に取り組んでいるこの本のタイトル『存在と時間』が、なぜ「時間」の語を含むのかも明らかになってくる。私たちは、この点についても先の見通しをつけておくことにしよう。
 
 
 論点:
 『存在と時間』における実存論的分析は人間存在の根源的なあり方を、「時間性」において見定めることになるはずである。
 
 
 不安の現象のことを思い起こしてみよう。不安において人間は、今にもすべてのものの終わりが差し迫っているのではないかといった仕方で、自分自身の存在を脅かされるのであった。予感、あるいは差し迫りという性格が、根本的情態性としての不安の気分を特徴づけていたわけである。
 
 
 ここでは、普通の言葉で言うならば「未来」という語で言い表されることになる時制が関わってきている。時間性の観点から言うならば、不安とは、人間が自分自身の未来あるいは「将来」に押しつぶされる経験であると定義することもできることだろう。根本的情態性としての不安は、人間としてのわたしが、常にわたし自身の将来に関わりつつ、その重みに押しつぶされることもありうるような存在者であることを明らかにしているのだ。
 
 
 これより後に続く「死への先駆」と「良心の呼び声」の分析は日常性の圏域を離れて、人間の生のあり方をいよいよ根源的な仕方で明らかにすることへと向かってゆくことになる。
 
 
 それと共に、「いつもと変わることのない毎日の連続」として生きられていた日常の世界は崩れ去り、生きることの根源と呼びうるような次元が、私たちの目の前に姿を現しはじめる。生きることの根源とは、時間性である。来たるべき〈時〉に関わりつつ、自分自身に委ねられている〈時〉を引き受けて〈時〉を掴みとることこそが人間の生を人間の生としてしるしづける根源なのであって、これから先の実存論的分析は、この終着点へと向かってこそ収斂してゆくことになるだろう。『存在と時間』の分析のすべては、あらゆる存在者と存在とが開示されるための超越論的な地平として、まさしくこの時間性なるものを露呈させることへと向けられているのである。
 
 
 
存在と時間 不安 未来 将来 死への先駆 良心の呼び声 キリスト教 宗教現象学入門 パウロ 実存 ハイデッガー キリスト教 アウグスティヌス パスカル 気づかい テサロニケ人への手紙 時間性
 
 
 
 「事実的な生の経験は歴史的である。キリスト教的な宗教性は時間性をそのものとして生きるのである。」
 
 
 『存在と時間』を公刊するよりも前、当時30代に入ったばかりであったハイデッガーが1919/20年講義「宗教現象学入門」のうちで掲げていた命題である。人間の存在の根源を時間性として見定めるという構想は、『存在と時間』を書くよりもずっと以前からハイデッガーが抱き続けていたものであった。彼は、新約聖書の一部として残されている「使徒パウロのテクストを通して原始キリスト教の宗教性の根源に迫るという企てのうちで、すでにその後に書かれることになる「時間性」をめぐる議論の発端に触れていたのである。
 
 
 ここから展開されることになる『存在と時間』における「実存の本来性」に関わる議論には、元カトリックの神学生という出自を持つ哲学者であるハイデッガーキリスト者たちのテクストから学びとった影響が、色濃く残っている。具体的に言うならば、パウロアウグスティヌスパスカル、そしてなかんずくキルケゴールであって、20世紀を代表する哲学の書物であるところの『存在と時間』は、実はキリスト教的な生の本質に対するきわめて鋭い理解に基づいて企てられた、人間の根源的存在論の描出の試みであった(一例を挙げるならば、この本における「気づかい Sorge」の概念の起源はアウグスティヌスの「気づかい cura」である可能性が極めて高い)とも言えるのである。
 
 
 パウロをはじめとするキリスト者たちは、「この世の終わりが差し迫っている」という危機的な意識のうちで自らの生を生き抜いた人々であった。迫りくる〈時〉(『テサロニケ人への手紙第一』の表現を借りて言うならば、「盗人が夜やって来るように、その時は突然にやって来る……」)を目前にして、待ちつつ、急ぎつつそれぞれの務めを果たすことこそが彼らの日々の内実であったわけで、その結果、彼らの生は、ある途方もない〈時〉の充溢と緊張として生きられることになったわけである。
 
 
 彼らキリスト者たちの手によって展開された哲学はいわば、二千年にわたって〈時〉という問題圏を、彼ら自身の実存を賭けて探求し続けてきたとも言えるのであって、ハイデッガーの『存在と時間』における「時間性」に関する議論は、これらの探求の成果の現象学的総決算とも言えるものになっているのである。いずれにせよ、実存の本来性の分析を通して「生きることとは、〈時〉を生きることである」というヴィジョンに到達することが、私たちの読解の当面の目標になるだろう。このことを確認した上で、私たちとしてはこれから「死へと関わる本来的な存在」の可能性を見定めるという、この圏域における最初の課題に取り組んでみることにしたい。