イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたしが、去りゆく『その人』と決して分かち合えないこと」:共同相互存在の臨界点

 
 現存在、すなわち人間の「死へと関わる存在」は、どのように規定されるのだろうか。この点を明らかにするにあたってハイデッガーがまず指摘するのは、次の論点にほかならない。
 
 
 論点:
 私たちは人間の「死へと関わる存在」を解明するために、他者たちの死という事例を手がかりにすることはできない。
 
 
 現存在であるところの人間は死ぬともはや世界内に存在しなくなってしまうのであるから、死という現象に接近するためにはわたし自身ではなく、他者たちの死に手がかりを求めることが有効なのではないかと考えることは、自然な道行きであろう。しかし、ハイデッガーによれば、この方策はこと死という現象に関しては、有効なものではありえないのである。どういうことだろうか。
 
 
 いま、生きていて、これからもまだ生き続けるであろうわたしが、死にゆく一人の人と共にその場に居合わせるとする。わたしとその人とは親しい間柄で、最後の大切な時を過ごしているところだとしてみよう。
 
 
 わたしとその人とは、さまざまなことを共にすることができる。わたしは彼、あるいは彼女と数々の思い出について語り、二人の間で結ばれ続けてきた関係性について語る。死にゆく人は、わたしに何か言い残すべき言葉を語ってくれるかもしれない。それはまさしく、わたしが死にゆくその人と共に過ごすことのできる「最後のひととき」と呼ぶにふさわしい時間となることも、ありうることだろう。
 
 
 しかし、わたしが死にゆくその人と決して共にすることのできない、たった一つのことがある。それは、彼あるいは彼女が今まさに死のうとしているその死を死ぬこと、世界内存在そのものを喪失するという、比類のない出来事を共に経験することである。今はまだ生者の世界に属しているわたしは、その人がこの世を去っていった後にも、生きなければならない。彼あるいは彼女は、その意味では、たとえ臨終の時に最も親しい人に取り巻かれているとしても、たった一人でこの世から旅立ってゆかなければならないのである。
 
 
 
ハイデッガー 死へと関わる存在 存在と時間 実存 現存在
 
 
 
 「私たちは、純正な意味では他者たちが死ぬことを経験することがない。むしろせいぜいのところ、つねにただ『その場に居あわせて』いるだけである。」(『存在と時間』第47節より)
 
 
 看取ること、親しい人が死んでゆく、まさにその場面に共に居合わせることは、人生の中でも最も重要な場面の一つであることは言うまでもない。死にゆく人との共同相互存在は、その人が生きることを終えるその瞬間に至るまで、終わることがない。それどころか、現存在であるところのわたしは、葬礼や墓参り、写真や思い出の品といったさまざまな物や出来事を通して、また、折に触れて人知れずその人のことを想いながら追憶することを通して、その人との共同存在を続けてゆくことだろう。故人との共同存在は、人間の営みを、ほかならぬ「人間」のものとしてしるしづけるところの根源的な契機にほかならないのである。
 
 
 しかし、死にゆく人が、わたしには決して経験することのできない未曾有の出来事を決定的な仕方でくぐり抜けていったということも、それに劣らず確かなことなのである。彼あるいは彼女はこの世界から、旅立っていった。彼ら、死者たちはもはや生者である私たちと同じような仕方では、この世界の時間と空間のうちに存在してはいないのである。
 
 
 死者たちは、まるで彼らが一度もこの世に存在していなかったかのように、消え去ってしまったのだろうか。それとも、私たちのあらゆる想像を超えたところでいつかもう一度目覚めるために、この世の知恵の論理からするならばまさしく神秘的としか形容しえないような仕方で、今も眠りについているのだろうか。
 
 
 このことを決定することはもちろん、実存論的分析のなしうるところではない。実存論的分析の立場から言いうるのはただ、「現存在であるところの人間が死ぬということ、世界内存在を喪失するという比類のない出来事を共に経験することは、他者の死に居合わせることによっては不可能である」という所までである。『存在と時間』の探求はかくして、哲学の営みが語りうる領域と語りえない領域との、そのぎりぎりの境目にまで接近しつつ、死という現象が私たち人間存在に対して持つ意味を画定しようと試みる。私たちとしてはこの探求の道行きを追ってゆくこととしたいが、この試みは、人間存在にとって「実存する」という言葉が持つ意味の射程を、これまでよりもさらに根源的な仕方で明らかにすることになるはずである。