イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

あらゆることが代理可能な世界において、決して代理できないこと:Sein zum Todeから見えてくる、私たちの生の真実

 
 前回に見た「他者の死を共に死ぬことの不可能性」という論点から、さらに先に進んで考えてみることにしよう。
 
 
 「[…]代理可能性は、現存在をおわりに到達させる存在可能性、そうした可能性として現存在にその全額を与えるような存在可能性を代理することが問題となる場合には、かんぜんに座礁してしまう。だれも他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。」(『存在と時間』第47節より)
 
 
 ここで問題になっている「死ぬことの代理不可能性」という論点は、非常に重要なものである。というのも、この論点は現存在、すなわち人間の経験が日常性の圏域を踏み越えてゆく、まさにその地点においてしか成り立たないものであるからだ。どういうことだろうか。
 
 
 日常性の次元において私たち人間が生きているのは、配慮的気づかいによって成り立っている「仕事」の世界である。すなわち、この「仕事」の世界は「作業」や「スケジュール」、「シフト」といった概念と共に運営されてゆく「働くこと」の世界に他ならないのであって、ここにおいては、少なくとも原理的にはあらゆる物事が代理可能である。たとえば、ある職場で働いている誰か一人の人が「今日のシフト」を病気や用事で欠勤することがあるとしても、別の人によってその穴を埋めることは常に可能なのである。
 
 
 ところが言うまでもなく、このことは、こと死ぬことというケースについては当てはまらない。つまり、誰もが知っているように、「人間ならば、誰でもいつかは必ず死ななければならない」のであって、この死ぬという務めを誰か他の人が代理することは不可能なのである。従って、上に見たように、「誰も他者から、その者が死ぬことを取りのぞくことはできない。」死という出来事においては、代理可能性という、日常の世界を動かしている基礎的なルールがもはや通じなくなるということだ。
 
 
 ここから、人間が実存するという根源的な事実に関する、ある重要な帰結が導かれてくる。すなわち、それぞれの人は他者によっては決して代理できないような仕方で、各人の死を死ぬことを定められている、ということである。私たちは、未曾有の〈神秘〉であり、世界内存在そのものを喪失するという比類のない出来事であるところの死を経験するという務めだけは、誰にも代わってもらうことができない。それはいわば、私たち人間存在に避けることのできない仕方で割り当てられた、運命の取り分である。それも、これだけは他の務めとは異なって、自分自身に固有なものとして引き受けることが定められているところの、その人にいつの日かたった一度だけ与えられることになる取り分なのである。
 
 
 
存在と時間 現存在 配慮的気づかい 実存 代理不可能性 実存の各自性
 
 
 「死は、それが『存在する』かぎりその本質からいってそのつど私のものなのである。しかも死は、ひとつの固有な存在可能性を意味しているのであって、その存在可能性にあってはそのつど固有な現存在の存在が端的に問題なのだ。」(『存在と時間』第47節より)
 
 
 「死とはわたしのものである」というこの論点は、狭い意味での死という出来事を越えて、実存することそのものに関わる根源的な事実を明るみにもたらさずにはおかないものである。すなわち、この論点は、そもそも実存そのものが「そのつどわたしのものである」という性格を持っていることを、改めて証しているのではないか。
 
 
 先に挙げた論点を振り返りつつ、考えてみよう。私たち人間を「共に生きること」の偉大さと頼もしさを感じさせると同時に、悲しくさせずにはおかないのは、一人の人間がなしうるどのような仕事や功績であっても、誰か別の人によって取って代わられることが常に可能であるということだ。
 
 
 「あの人がいなかったらこの職場は絶対に回らないと思っていたけれど、あの人が別の職場へ移っていった後に、物事はあの人なしでも何とか続いていってしまうものなのだな、と知った。」このような時に、私たちは言いようのない寂しさを感じる。現存在であるわたしにとってはこれまで、わたしの職場は「助けてくれることもあれば、迷惑をかけてくることもある『あの人』なしでは、決して成り立たない場所」であった。しかし、悲しいことに、この世のどんな職場であっても、忘れることのできない「あの人」なしでも物事は何とか回ってしまうものなのである。代理可能性によって特徴づけられる人間の営みとは、かくもたくましく、そして、はかないものであるということなのだろう。
 
 
 しかし、この世には決して他の人が取って代わることのできない務めも存在していて、それこそが、「他の誰でもない一人の人間として、わたしが『わたし自身』の人生を生きるということ」に他ならない。わたしが行う仕事は代理することができるけれども、わたしが生きるこの生そのものは、代理することができない。かくして、死ぬことの代理不可能という論点は「実存の各自性=代理不可能性」という根源的な事実を、いわば逆向きに照射する。私たち人間にとって、愛することとはおそらく、他の人によっては代理することの不可能なこの「実存すること」を互いに受け入れ合うことに他ならないのではないだろうか。ともあれ、この「実存の各自性」というモメントについてはもう少し存在論的に詰めておかなくてはならない論点があるので、次回の記事では、その点について見ておくことにしたい。