イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「わたしが存在する」という事実の、存在論的な射程について:パスカルが、デカルトにあくまでも抗い続けた理由

 
 現代の哲学書である『存在と時間』が、近代の哲学に対して立っている歴史的な位置という問題については、もう少し掘り下げて考えておかなくてはならない。デカルト省察』のよく知られた箇所を、ここで思い起こしてみることにしよう。
 
 
 「それゆえ、すべてのことを十二分に熟慮したあげく、最後にこう結論しなければならない。『私は在る、私は存在する』という命題は、私がそれを言い表すたびごとに、あるいは精神で把握するたびごとに必然的に真である、と。」(「第二省察」より)
 
 
 デカルトによって表明された「コギト・エルゴ・スム(思考するわたしは存在する)」は単に彼一人のものとしてとどまることのない根本テーゼとして、その後の哲学の歴史にとっての運命であり続けた。そして、このテーゼは2021年の現在においてもなお、哲学的に物事を考えようとする全ての試みにとって、無視できないものであり続けているのである。
 
 
 しかし、『存在と時間』第二篇第一章において展開されている議論はこの「わたしは存在する」の意味をめぐる問題に対して、ある根本的な問いを投げかけずにはおかないものであると言えるのではないか。
 
 
 問題提起:
 「死へと関わる存在 Sein zum Tode」を事象そのものに即して十全な仕方で捉えることがない限り、「わたしが存在する」ということの存在意味は見落とされてしまわざるをえないのではないか?
 
 
 前回に見た論点を、ここでもう一度振り返っておかなければならない。「思考する意識」、あるいは「主観」としてのみ捉えられている限り、「わたしが存在する」ということの意味は、十全な仕方で考えられていると言うことはできない。『存在と時間』の言葉を借りるならば、わたしとは「現存在」に他ならないのであり、つまりは、世界のうちに実存する一人の人間以外の何物でもないのである。
 
 
 そして、このことを端的に示しているのが他でもない、わたしの「死へと関わる存在」であると言えるのではないか。現存在であるわたしは、いつの日か死ぬことを定められている一人の人間として、この「終わりへと関わる存在Sein zum Ende」を生きている。まるで宙に浮いた主観ででもあるかのように「わたしの存在」を捉えようとする試みは、この意味からするならば、わたしが生きている現実から遊離した一つの抽象、あるいは、空想でしかありえないのである。
 
 
 
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 スピノザにせよライプニッツにせよ、17世紀に現れた哲学者たちは本質的に言って、デカルトが切り開いた道をさらにラディカルに突き進めてゆくことを自らの務めとしていた。そうした中にあって、ブレーズ・パスカルは近代をしるしづけるこの「デカルト革命」の目指すところを誰よりも深く直観しつつも、その方向性自体に根本的な異議申し立てを行った、数少ない哲学者の一人であった。
 
 
 パスカルには、見えていたのである。「私たちの時代が発見したと得意になっているこの『思考する自我』なるものはやがて、私たちの存在そのものを食い尽くすことだろう。私たち人間はいずれ、観念の化け物になるだろう。」そのような未来が見えていたからこそ、パスカルは世紀の発見として哲学の世界を賑わせていたこの「コギト・エルゴ・スム」に対して、「死へと関わる存在」を生きる人間存在の惨めさを対置しようと試みたのである。
 
 
 「人間は、死と不幸と無知を癒すことができなかったので、幸福になるために、それらのことについて考えないことにした」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片168)。パスカルがこのようにして、当時の「革新的な」哲学の作法のすべてに抗って人間の「死へと関わる存在」を強調したのは、救いの問題を提起するためにほかならなかった。デカルトの、そして、近代の哲学は、神の存在と救いの問題を思考のうちから消し去ってしまおうとする動向を、その根底に抱え持っているのではないか。そうであるとするならば、この哲学は思考のこの上ない明晰さを獲得するかわりに、人間を、もはや後戻りすることのできない不幸のうちへと落とし込んでゆくものなのではないだろうか。このような歴史の動向に対してあくまでも抗い続けるために、哲学者としてのパスカルの闘いは、「およそ哲学らしからぬやり方で哲学することを試みる」といった形を取らざるをえなかったのである。
 
 
 1927年に出版されたハイデッガーの『存在と時間』は、神の問題をそれとして問うことをさし当たり控えているけれども(この課題は、この本のおよそ十年後に書かれた『哲学への寄与論稿』において、黙示的とも言える仕方で遂行されることになる)、「死へと関わる存在」をめぐるこの本の議論は、デカルトに対するパスカルの闘いを、現代の哲学の闘いとして根源的な仕方で反復するものであると言えるのである。ただし、ハイデッガーがこのような企てに乗り出すのはあくまでも彼自身が自らに課した課題、すなわち、存在の問いを問うという課題のためである。「死へと関わる存在」を問うことは「存在の問い」を問うことと、どのように関わっているのだろうか。私たちは『存在と時間』の根幹に関わるこの論点を、次に見ておかなくてはならない。