イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「存在の意味への問い」:Sein zum Todeの概念において、賭けられているもの

 
 論点:
 死の現象は『存在と時間』が提起している「存在の問い」そのものにとって、根源的というほかない重要性を持つものである。
 
 
 ハイデッガーの言葉を借りるならば、死ぬこととは人間にとって、現存在することの「不可能性の可能性」を意味している。すなわち、現存在であるところのわたしにとって、死とは、もはやわたしが世界内に存在することができなくなるという法外な可能性を指し示すものに他ならないのである。
 
 
 『存在と時間』の真理論についてすでに論じたことを、ここで思い起こしておくことにしよう。現存在であるところの人間にとって、真理の現象とは一言で言い表すならば、「覆いをとって発見すること」に他ならないのだった。
 
 
 現存在であるところのわたしは、世界内に存在することのうちで、街を、風を、大地を発見する。真理とは、わたしが〈ある〉を見出すというそのことであり、その意味で、「存在」と「真理」という言葉は切り離すことができないのである。「覆いをとって発見すること」としてのアレーテイアとは、現存在であるところのわたしがこのように、存在への、〈ある〉への開かれを生きることに他ならないのだった。
 
 
 ところで、死ぬことがもはやわたしが世界内存在しなくなることを意味するのだとすれば、死とは、この「開かれ」それ自体が終わりを迎えるという法外な出来事を意味するのではないだろうか。
 
 
 つまりは、こうである。現存在であるところのわたしには、「覆いをとって発見すること」という神秘あるいは驚異が確かに、与えられている。しかし、この「泉」はおよそ無限なものではありえないのであって、わたしに与えられているところのこの「開かれ」は、わたしが現存在としての自分の死を死ぬことをもって、少なくとも一度は決定的な仕方で閉じられることだろう。このことに思いを向ける時、〈ある〉が与えられるということ、「存在者が存在する」という根源的な事実は、より一層の深みにおいて私たちを打たずにはいないのではないだろうか。
 
 
 
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 問い:
 こうしたことのすべては一体何を意味するのだろうか、この世界のうちに生まれ、また死んでゆくことのうちにあって、〈存在〉のような何かが、覆いをとって示されるとは?
 
 
 生きるということはこの意味から言うならば、瞬く間に明滅する閃光のようなものであると言えるのかもしれない。決定的な空け開け、あるいは、〈存在〉の自己露呈、そしてその後に、終わりがやって来る。この「〈開かれ〉それ自体が存在しているということ」には一体、どのような意味があるのだろうか。これこそが、『存在と時間』の、そして、ハイデッガーという思索者の生涯の全体を突き動かすことになった、根本の問いにほかならない。
 
 
 この問いは、それ以上に遡ってゆくことが不可能であるように見えるほどに、根底的な問いであるといえる。私たちは生まれては死んでゆくし、私たちが去っていったその後にも、世界は回り続けることだろう。こうしたことのすべてには、一体どのような意味があるのだろうか。何のために、〈ある〉は私たちのもとに到来し、私たちのもとを去ってゆくのか。
 
 
 1927年に出版された『存在と時間』が哲学の歴史そのものにとっての運命とならざるをえなかったのは、一つにはこの本が、それ以上どうすることもできないように見えるこの問いを、哲学の問いとして問うことのうちへともたらしたからに他ならない。この本においては、出来合いの答えをもたらすことは問題にならなかった。ただ、問いを問いとして問うこと、「存在の問い」を問いとして提起することだけが問題であった。
 
 
 死の主題は、「死へと関わる存在 Sein zum Tode」を実存の問題として問うこの『存在と時間』から、死ぬことを「〈存在〉の最高にして極限の証書」と言い表すことになる後年の『哲学への寄与論稿』に至るまで、ハイデッガーの思索において決定的なモチーフであり続けたのである。ここにはおそらく、一人の思索者を思索者たらしめている根源的な風景があるのと同時に、2021年の現在において哲学の問いを問おうとしている私たちが通り過ぎることのできない、哲学の営みそのものにとっても運命的というほかない問題提起が存在していると言えるのではないか。私たちはもう少しだけこの地点に踏みとどまって、この点について考えてみなければならない。