イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「形而上学的な不安」:この「不安」の概念をそれとして仕上げることが、実存の本来性を捉えるための不可欠な条件をなす

 
 前回までの探求において判明したのは、死とは人間にとって「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない可能性」であるということだった。ところで、この「可能性の中の可能性」の存在の仕方については、次の論点が特に重要になってくる。
 
 
 論点:
 現存在であるところの人間は、最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない可能性としての死の可能性を、後から身につけるのではなく、彼あるいは彼女が現存在として実存する限り、この可能性のうちに常にすでに投げ込まれているのである。
 
 
 この点については、ハイデッガー自身が『存在と時間』第48節において引用している『ボヘミア生まれの農夫』の、「人間が生まれるとすぐに、ただちに人間は死ぬのにじゅうぶん年老いている」という言葉が核心をついていると言える。ただし、実存論的分析の観点から見て肝要であるのは、この論点をいわゆる「死を想えmemento mori」の簡潔な確認に終わらせることなく、存在論的な仕方でさらに深めてゆくことであると言わなければならない。
 
 
 可能性のうちには、現存在であるわたしが自己投企を重ねることによって、次第に仕上げられてゆくものもある。すなわち、わたしが日々の中で行う数々の跳躍、将来に向かって自分自身を投げること、「わたしは、本来的な〈わたし自身〉にならなければならない」という覚悟とともに行われる賭けの連続の中で、現存在であるわたしは、わたし自身の「最も固有な存在可能」へと次第に近づいてゆく。こうした意味における「可能性」のうちには、人間存在が掴むことのできる自由の、その極限の姿が体現されていると言うこともできるかもしれない。
 
 
 ところが言うまでもなく、このことは少なくともその最初の時点においては、死の場合には当てはまらないのである。死の可能性は、わたしが行うあらゆる投企とは無関係に、現存在であるわたしに取り憑き続けている。わたしはこの「法外な可能性」のうちに、望むと望まざるとに関わらず常にすでに投げ込まれているのであって、この事実のうちにこそ、ハイデッガーが「被投性」という言葉で言い表しているモメントの、その最も深い射程が示されていると言えるのではないか。情態性、すなわち気分の現象こそが、被投性のうちにある人間存在の〈現〉を、避けがたい仕方で開示する。日常性は生が穏やかな外観を保つよう、常に気づかい続けているけれども、人間は根本的情態性としての「死への不安」のうちへと、本当は常にすでに投げ込まれていると言えるのではないか。
 
 
 
ハイデッガー 存在と時間 ボヘミア生まれの農夫 memento mori 可能性 被投性 死への不安 エマニュエル・レヴィナス 反出生主義
 
 
 
 ハイデッガーの指摘する「死への被投と根源的不安」という論点について、もう少し掘り下げておくこととしたい。通常、私たちが「死への恐怖」と呼んでいる現象においては、次の二つのものが分かちがたく絡まり合っている。
 
 
 「死への恐怖」の二つのモメント(この二つのもののうちに存在している理念的な差異を見分けることが、実存論的分析の観点からするならば、非常に重要である)
 
 ① 死の場面に際して、肉体的・精神的な苦痛を感じることへの恐怖。
 ② もはや世界内に存在しなくなるという意味での、「現存在の不可能性の可能性」を前にしての、根源的な不安。
 
 
 私たちが人間である限り、私たちのついの誰も、この①のモメントが持つ避けがたい重みを否定することはできないであろう。そして、私たちが後々の探求で見るように、エマニュエル・レヴィナスによって提起された「〈ある〉il y a」の概念などを思い起こすならば、「人間として存在することの絶えざる不安」なるものには、必ずしも死の可能性だけが関わっているわけではないということも確かである。この「存在することの居心地の悪さ」という論点については、存在することそのものが〈悪〉へと反転されてしまう反出生主義の問題も視野に入れつつ、いずれレヴィナスのテクストを通して、詳細に分析しなくてはならない。
 
 
 しかし、人間存在にとっては、②のモメントのうちで示される、ほとんど「神秘に対する畏れ」としか言い表しえないような根源的な不安もまた、限りなく大きな意味を持っていると言わざるをえないのではないか。
 
 
 「まさしく、今のこの瞬間に存在しているところのわたしはいつの日か、想像を超える仕方で、もはや世界内存在しなくなることであろう。」すなわち、現存在であるわたしは、わたしにとってはほとんど世界そのものが消滅すると言ってもよいような「法外な可能性」の前に立たされているのであって、ひとはこの深淵を直視することも、そこから完全に目を背けることもできない。この不安とは生々しい不安であるというよりも、いわば「形而上学的な不安」とでも呼ぶほかないような不安である。この不安とは、被投性の深みにおいて現存在の「終わりへと関わる存在」を避けがたく露呈させるのだが、この露呈の出来事そのものにおいて、生きることを「存在することの神秘」として開示せずにはおかないような、そうした不安なのである。次回の記事においては、この不安を「不安」として改めて受け取り直しながら生きる可能性が現存在である人間には存在するのかどうかを、ハイデッガーと共に問うてみることにしたい。