「人間が死ぬことの可能性へと投げ込まれているという剥き出しの事実は、根本的情態性である不安によって開示されている。」前回に取り上げたこの論点からは、この後の探求の道行きそのものを突き動かしてゆくともいえる、次のような問いが浮かび上がってくる。
問い:
「死へと関わる存在 Sein zum Tode」の本来的なあり方なるものが、果たして存在するのか?実存論的分析がこのような可能性を追い求めることは、一箇の空想的な目論見に終わるものではないと、本当に言えるのだろうか?
すでに見たように、死とはその根源においては、ほとんど神秘とも形容せざるをえないような、形而上学的な可能性であった。それは、世界内存在することの喪失の可能性であり、したがって、現存在であるわたしにとっては、世界そのものの消滅にも等しい可能性であると言わざるをえない。〈ある〉の開かれのうちでわたしは実存しているのだが、死ぬこととは、この開かれそれ自体が決定的な仕方で閉じられることに他ならないのではないか。そうであるとすれば、死ぬことはまさしく〈想像することの不可能な可能性〉として、畏れにも近い不安を引き起こさずにはいないものであると言えるのではないだろうか。
次回の記事で見るように、まさに事情がそのようになっているからこそ、日常性において〈ひと〉は死について語ったり、考えたりすることを出来るだけ避けているのである。「〈ひと〉は、死をまえにしての不安へと向かう勇気が起こらないようにさせる」(『存在と時間』第51節より)。ハイデッガー自身が原文において強調しているこの部分の言葉の意味するところを改めて正面から受け取り直すならば、上に挙げた問いは、次のように言い換えることもできるのではないだろうか。
問い(再定式):
「死を前にしての不安へと向かう勇気」なるものが、果たして存在するのか?このような勇気が存在するとすれば、この可能性を「死へと関わる存在」の本来性として実存論的分析の枠組みのうちで論じることは、可能なのであろうか?もし、このことが不可能ではないとするならば、果たしてそのことは、人間存在が「死ぬことの可能性のうちへと先駆する」という法外な存在可能を、存在論的な仕方で確証するのだろうか?
かくして、『存在と時間』の後半部が提起している「実存の本来性」の問題圏は、その根底においては「勇気」の語で指し示されている実存の様態とも深く関わるものであることが、明らかになってくる。そして、このことは、哲学の歴史の観点から見るならば、非常に興味深い事実でもあると言えるのではないか。なぜならば、この「勇気」なるものは、プラトンやアリストテレスといった古代ギリシアの先人たちが思惟のうちで情熱的に追い求めていた当のものに他ならないからである。
いまや私たちは、彼らギリシアの哲学者たちが〈勇気〉〈節制〉〈知恵〉〈正義〉等々といった〈徳(アレテー)〉のあり方を追求することになぜあれほどまでにこだわり抜いたのか、そのことにはいかなる哲学的な必然性が存在するのかを、実存論的分析の立場から、より深く理解することができる。〈アレテー〉の問題圏は、存在論的な問題圏と直接に連関しているのである。存在問題をその射程において十全な仕方で捉えるためには、その条件として、本来的な実存の可能性としての〈アレテー〉をその存在論的な根源において問い直す必要があるということ、このことこそ、プラトンやアリストテレスといった哲学者たちが、前存在論的な仕方においてではあったとはいえ深く自覚していた事実であったと言えるのではないだろうか。
目下の主題の方に立ち戻るならば、実存の本来性として実現されるはずの「死を前にしての不安へと向かう勇気」とは、不安から目を背けるのではなく、その不安を直視し、その不安のうちで自らを保つような実存を、現存在であるところの人間に対して可能にするものであるはずである。プラトンはソクラテスに語らせていた、「勇気とは、何を恐れるべきか、何を恐れるべきではないかについて判断を下すにあたって、真の〈法〉のうちに、すなわち、理性がもたらす知恵のうちにとどまり続けることに他ならない……」。しかし、死というかくも法外な可能性を前にした時であっても、このことは果たして妥当するのだろうか。「死への先駆」は現存在の実存的な可能性として、実存論的な仕方で確証されうるのか。この点については、これまでの探求においてはいまだ明らかになってはいないと言わざるをえない。私たちとしては、死の現象について、さらに分析を進めてみなければならない。