イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「メメント・モリ」は語られ続ける:生の日常と哲学の問い

 
 「死へと関わる本来的な存在」の可能性を問うためには、その前提として、「死へと関わる存在」の日常性におけるあり方を見定めておく必要がある。
 
 
 論点:
 日常性において、私たち人間は〈ひと〉として、「死へと関わる存在」について語ることを避け、それを覆い隠すようにさりげなく気づかっている。
 
 
 このことの証拠はたとえば、死を連想させる表現を用いることをできるだけ避けるといった仕方で、目に見える形で示されていると言ってよいだろう。(日本の場合には)4の数字は病院などの場所ではできるだけ使わない、あるいは、多くの人の目に触れるSNSでは、人の死が関わってくる主題について語る時であっても、直接的に「死ぬ」と表記することはできるだけ避ける、等々。こうしたことは、隣人たちに衝撃や不安の種を与えないようにするという意味では、〈ひと〉の世界を平穏なものに保つための不可欠なマナーをなすものであると言えることは確かである。
 
 
 しかし、このルールが私たち人間の「死へと関わる存在」の全てであるとするならば、その時には「日常性における現存在は、自らの最も固有な可能性である死から逃避し、それを覆い隠そうとしている」と言わざるをえないのではないかというのが、『存在と時間』第51節(標題「死へと関わる存在と、現存在の日常性」)におけるハイデッガーの問題提起なのである。
 
 
 すでに見たように、死ぬことの可能性とは人間にとって、「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない可能性」に他ならないのだった。この可能性は、日常を生きている〈ひと〉には重すぎるのである。だからこそ〈ひと〉は、他者たちとの関わりの中で〈ひと〉であることの安らぎを保つようにそれとなく気づかいながら、一人一人の人間があまりにも重苦しい課題に直面することのないよう、いわば常に防衛戦を張りめぐらし続けているのである。
 
 
 「最も固有な」とは、他の誰でもなく、自分自身で向き合うほかないもの、ということである。「関連を欠いた」とは、この可能性に向き合うにあたっては、他者とのつながりを頼りにすることはできない、ということを意味する。こうした特徴は、「誰でもないこと」を頼りの綱とする〈ひと〉にとっては、正面からは向き合いがたい不安を引き起こすものであることは間違いない。〈ひと〉の世界のうちには確かに、優しさと思いやりとが流れてもいるけれども、それと同時に、この世界は「それとなく避けること」を不可欠の条件として成り立ってもいるのではないか。この主題に関して、ハイデッガーの分析から私たちが何か学ぶべきものがあるとすれば、それはこの「それとなく避けること」を、人間の日常性を形作っている一箇の実存論的な条件として、哲学のまなざしのうちにもたらすことであると言えるのではないか。
 
 
 
死へと関わる存在 存在と時間 現存在 メメント・モリ 死を想え 最も固有な可能性 マルティン・ハイデッガー
 
 
 
 「『死のことを考える』ことからしてすでに、公共的には、臆病な恐れ、現存在の不確実さ、陰気な世界逃避であるとみなされるのである。〈ひと〉は、死をまえにしての不安へと向かう勇気が起こらないようにさせる。」(『存在と時間』第51節より)
 
 
 ひとは言う。死のことを、あまり深く考えすぎてはいけない。そんなことを考えていてもただ陰気になるだけだ、哲学は死ぬことをではなく、生きる喜びの方をこそ追い求めるべきなのであるから。これまでずっと、こうした考え方がそれを支持する人々を失ったことはなかったし、また、これからもないだろう。それにまた、こうした考え方のうちには耳を傾けるべきものがないわけではないということも、疑いようもなく確かである。
 
 
 しかし、私たち人間には自分自身の存在の奥底から響いてくる、それとは別の声が聞こえていることもまた、それに劣らず確かなのであって、それこそはかの「死を想え memento mori」に他ならない。この声は、言うのである。私たち人間は、この「最も固有な可能性」に向き合うことをこれまでずっと避け続けてきたし、これからも避け続けることだろう。けれども、考える人であるあなたは、そうであってはいけない。文化と呼ばれるに値する真剣なものを作り上げてきた人たちはこれまで、「死を想え」の声の促しにずっと忠実であり続けてきた。あなたも、その道を行きなさい。
 
 
 哲学の歴史の方に立ち戻ってみるならば、マルティン・ハイデッガーが1927年に『存在と時間』において「死へと関わる存在」についての議論を提起したことは、哲学の営みそのものにとって非常な大きな意味を持った出来事であった。学問の言葉づかいを通してこの問題が提起されたことによって、20世紀に本質的な仕事を残した哲学者たちはほとんどみな、何らかの仕方で死について本格的に論ずるに至ったのである(そして、その中の少なからぬものは、『存在と時間』における議論に対する直接的な応答という形を取るものであった)。
 
 
 普通の仕方では、あるいは、日常においては語ることのできないことを語り、それについて論じることさえもできるというところに、哲学なる営みの存在意義がある。そして、とにもかくにも哲学なるものが存在することを許し、それを分かち合いさえしているところに、私たち人間の世界の、一筋縄ではゆかない奥深さが示されているとも言えるであろう。この世は、哲学を諸手を挙げて歓迎するほど大胆でもないが、さりとて、無碍に退けるというほど狭量でもないのである。かくして、私たちはこの時代を生きる人のもとにまで届けられた『存在と時間』をいま読んでいるというわけであるが、世の中に哲学の営みが存在する限り、「死を想え」はこれからも静かに語られ続けてゆくはずである。