イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「現代とは『生から見捨てられていること』の時代である」:後期ハイデッガーの思索から『存在と時間』へ

 
 〈ある〉の意味が失われているという「存在忘却」の現象はその根源をたどるならば、「実存忘却」とでも呼ぶべき事態にまで行き着くのではないか。人間存在にとって「死のうちへと先駆すること」が持っている意味について考えるために、この論点を、ハイデッガー自身の言葉を引きながらもう少し掘り下げてみることにしたい。
 
 
 「現存在はたしかに存在的には身近であるばかりではなくー私たちはそのうえ、そのつど自身が現存在なのであるからーもっとも身近なものですらある。にもかかわらず、あるいはまさにそれゆえに、現存在は存在論的にはもっとも距たって(へだたって)いるものである。」(『存在と時間』第5節より)
 
 
 上に引用したハイデッガーの文章を、より分かりやすく言い換えてみるならばこうなる。すなわち、「人間は、人間自身に対して最も遠い存在者なのであって、私たちの存在の仕方は、私たち自身に対してはほとんど全く知られていないと言わざるをえない。」
 
 
 「人間とはありふれたものである」という日常的なものの見方は、この意味からすると、一つの全き仮象あるいは錯覚であると言わなければならない。そして、およそ哲学的にものを考えようとする人が必ず認識しておかなければならないこの事実に対して、改めてしっかりとした学問的な定式化を与えたという点においても、『存在と時間』は疑いなく「哲学の歴史の中でも、最も偉大な書物の一つ(レヴィナス)」であると言えるのである。
 
 
 このことを、「生」という観点から捉え直してみよう。自明なことであるようにも思われるが、私たち人間はそれぞれの場所で、それぞれの日常を生きている。日々は流れ、生活は続いてゆく。日常性のまなざしから見るならば、そこには何の不思議も、何の疑問もないように見えることだろう。
 
 
 しかし、私たちがこれまでにたどってきた実存論的分析の成果からするならば、まさにこのことこそが、神秘の中の神秘であり、驚異の中の驚異にほかならないのだ。私たちが、今のこの瞬間においても生きているということ、本来的な仕方で、あるいは非本来的な仕方で「実存」し続けているということ、このことこそ、私たちが「存在忘却」の現象に抗して遡ってゆくべき、事実の中の事実なのである。生きることが私たちの手からこぼれ落ち、逃れ去ってゆくまさにその傾向に命がけで抗いながら、生は、生きることそれ自身を掴みとらなければならない。これこそが、若き日のハイデッガーアウグスティヌスという先人の思索のうちに読み取り、後には自分自身のものとして引き受けていった、『存在と時間』の根本モチーフにほかならないのであった。
 
 
 
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 『存在と時間』よりも後の時期のハイデッガーは、現代という時代の運命を、「存在から見捨てられていること  Seinsverlassenheit」の語で言い表していた。「存在忘却」がその根源においては「実存忘却」とも深く連関しているという、いま問題にしている論点を踏まえるならば、2021年の終わりを生きている私たちは、現代とは「生から見捨てられていること」の時代であると言うこともできるのではないか。
 
 
 ハイデッガーが言うように、私たちが生きている現代は、窮迫がないことがそのまま窮迫そのものでもあるような、見えない絶望の時代でもある。たとえば、私たちは、至るところで「死にたい」とか「消えたい」といった言葉を始終耳にするにも関わらず、なぜそうしたことについて、真正な仕方で語ることだけは許されていないのだろう。こうしたことをめぐる事情については、『存在と時間』の後のハイデッガーの思索の射程をも踏まえた上で、いずれ根底のところから哲学の問題として考え抜いてみるのでなければならない。
 
 
 しかし、『存在と時間』における実存論的分析の歩みをたどり直している私たちにも、今の時点で明らかになっていることがある。それは、生きることが生それ自身から逃れ去ってゆく、その逃れ去りの傾向に抗して、生それ自身へ遡ってゆくことを可能にしてくれる最も根源的な契機の一つとは、「死への先駆」にほかならないということだ。
 
 
 「私たち人間は、みないつか死ぬ。」ハイデッガーという思索者の洞察の鋭さは、誰もが見知っているはずのこの事実に改めて目を向け、それを根源的な仕方で引き受け直しつつ、この事実こそは「存在の問い」を問いとして問うために必要不可欠な鍵であると見抜いたことのうちに示されている。哲学の問いは、それが根底的なものであればあるほど、「すでに見知っているはずのもののもとに、未曾有の仕方で近づいてゆくこと」を要求する。自分自身のことをしっかりと殺してくれる言葉に出会えないことが、現代人の不幸なのであるとしたら、私たちは、哲学の深奥にまで歩み入ってゆくことを恐れるべきではないのではないか。2021年もそろそろ終わりが近づいているが、今年の残りのブログでは、「生きること、あるいは生それ自体」というこの主題に定位しながら、私たちが置かれている現在の歴史的状況をも考慮に入れつつ、『存在と時間』における「死への先駆」の概念が私たちに対して持っている意味について、さらに掘り下げて考えてみることにしたい。
 
 
 
 
 [この一年間、ブログを見てくださっている方へ(Twitterの方では何度か感謝させていただいているのですが、いつもはてなスターを付けてくださる方に、ご挨拶させてください)……2021年はブログをずっと読んでくださって、ありがとうございました。特に、ハイデッガーの読解を始める前、自分自身の問題を追っている頃、「たとえ誰一人読む人がいなくとも、哲学し続けなければならない」とひたすら書き続けていた中で記事を読み続けてくださった方がいたことは、どれだけの励ましになったかわかりません。きちんとお礼を言う機会がありませんでしたが、本当にありがとうございます。筆者もTwitterの方などでは、前よりも少しだけ読んでくださる方が増えてきています。どこまでやれるかは分かりませんが、筆者はこれからも全力で哲学に取り組み続けるつもりですので、もしよかったら、これからもよろしくお願いいたします。]