イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

リミッターが外されるとき:「先駆」は現存在であるところのわたしを、〈ひと〉の働きから決定的な仕方で解き放つ

 
 まずは、「死へと関わる本来的な存在」を実現する契機としての「死への先駆」が人間存在をどのように変容させてゆくのかを見定めるという、2022年の最初の課題に取りかかることとしたい。
 
 
 「死への先駆」は現存在であるわたしを、「本来的な自己を生きること」の圏域へと向かって解き放たずにはおかない。ハイデッガーはこの点について、次のように言っている。
 
 
 「死とは現存在のもっとも固有な可能性である。この可能性へとかかわる存在が、現存在にそのもっとも固有な存在可能を開示する。[…]その存在可能において現存在にあらわになりうるのは、現存在がじぶん自身のこのきわだった可能性にあっては、〈ひと〉から引きはなされつづけること、いいかえれば、先駆しながら、じぶんをそのつどすでに〈ひと〉から引きはなすことが可能であるというしだいである。」(『存在と時間』第53節より)
 
 
 現存在であるところのわたしが今日にも、あるいは明日にも死んでしまうかもしれないということを、あるいは、「人間はいつの日か必ず死ぬのであるから、他の誰でもない一人の人間であるところのわたし自身もまた、いつの日か、わたし自身の死を死ぬであろう」という事実を深く受け止めることが、人間自身の生き方を根底のところから変えてゆくという点については、誰もが直観的に理解し、予感するところであろう。しかし、ここで注目しておきたいのは、上の文章でハイデッガーが述べているように、「死への先駆」においては、実存の根底的な変容と同時に〈ひと〉からの切り離しも同時に生起するという点に他ならない。
 
 
 「死への先駆」は、「わたしは明日にも死んでしまうかもしれないというのに、今と同じままの状態でいてよいのか」とわたしに自問させることによって、わたしを生の例外状態的次元、あるいは本来性の深淵へと連れ去るのである。そのことと同時に、わたしに対して示されるのは、「明確に意識してはいなかったけれども、これまでのわたしの生は現在に至るまでずっと、『日常性』という枠組みのうちに制限されながら営まれ続けてきた」という事実に他ならない。
 
 
 すでに見たように、実存カテゴリーとしての〈ひと〉は現存在であるわたし自身のうちで絶えず働き続けることによって、わたしを「誰でもない〈ひと〉であること」のうちに押しとどめ続けている。日常性の次元は、このような「見えざる押しとどめ」の働きが気づかれることもなく、変わることもないルーティンとなるところにこそ成立しているのであって、「死への先駆」は現存在であるわたしを生のこの次元から力強く引き離すことによって、わたしをして、これまで隠され続けていた「わたし自身の実存に関する真実」に気づかせずにはおかないのである。その真実とは、「わたしは、自分自身の死の可能性を正面から引き受けるようになる今のこの時に至るまでは、わたし自身の自己を喪失しながら生きていた」という、実存的にして実存論的な事実に他ならない。
 
 
 
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 繰り返しにはなってしまうが、実存カテゴリーとしての〈ひと〉の働きは、それが働いている当のわたし自身にすら気づかれることがない。
 
 
 「わたしは、〈ひと〉と同じように振る舞い、〈ひと〉のあり方に合わせて生きてゆくのでなければ、やってゆけないのではないか。」このような発想は明確に口に出されたり、頭の中で思い浮かべられたりする以前に、現存在である人間の生を絶えず規制し、調整し続けている。実存カテゴリーとしての〈ひと〉の働きはこの意味からすると、日常性の次元において機能し続けている現実そのものであると言わざるをえないのであって、それだからこそ、この見えざる働きに改めて目を向けようとする『存在と時間』の実存論的分析は、思考することのうちで私たちの生を構造化している事象そのものに迫ってゆこうとあくまでも試み続けているという点において、(ハイデッガー流の意味合いにおいてではあれ)「現象学」の精神に忠実なものであると言うことができるのである。
 
 
 しかしながら、すでに見たように、「死への先駆」は現存在であるわたしを、この「見えざる押しとどめ」の働きから決定的な仕方で解き放たずにはおかないのであった。すなわち、わたしは今や自分自身に対して、次のように問いかけずにはいられないのである。「わたしは一体これまで、何をあれほど気にしていたのか?わたしはひょっとしたら、気に病んでも全く仕方のないことを、これまでずっと思い悩み続けてきたのではないのか?」
 
 
 「死への先駆」はいわば、現存在であるところのわたしの実存の「リミッターを外す」のである。わたし自身の生の可能性を暗黙のうちに閉じ込め、窒息させていたリミッターが外されて、わたしが自分自身の「死へと関わる存在」を本来的な仕方で引き受け始めるとき、現存在であるわたしの目の前には、一つの決定的に重要な問いが浮かび上がってくる。それこそは、「わたしはわたし自身の『最も固有な存在可能』を、自らの死を死ぬことによってもはやこの世界に存在しなくなるまでに、いかにして掴みとるか?」という、余談を許すことのない問いに他ならない。2022年の始めに私たちが探求することになる『存在と時間』後半部の議論はすべてこの「問いの中の問い」を軸として回転しているのだが、このことを念頭に置きつつ、実存論的分析の歩みをさらに進めてゆくこととしたい。