イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「兄弟姉妹よ、今しばらくの辛抱だ」:1784年、イマヌエル・カントは彼自身の「最も固有な存在可能」を、いかにして引き受けたか

 
 「単独な現存在を生きること」という主題について掘り下げつつ、後に『存在と時間』の論理に即して「本来的な仕方で共同相互存在すること」の可能性を問うための足がかりを作っておくためにも、カントの「啓蒙とは何か」についてもう少し見ておくことにしたい。前回の記事で引いた箇所を、ここに再び提示しておく。
 
 
 「こうして啓蒙の標語とでもいうものがあるとすれば、それは『知る勇気をもて(サペーレ・アウデ)』だ。すなわち『自分の理性を使う勇気をもて』だ。」
 
 
 カントがこのテクストを書いて『ベルリン月報』に掲載した1784年という年は、フランス革命が起こるほんの数年前にあたる。いま論じようとしている文脈においては、この時代のヨーロッパの世界においては、二つの異なった流れがせめぎ合っていたと言うことができそうである。
 
 
 一方には、社会のさまざまな側面において、考えるという行為そのものを押しとどめ、規制の権威や制度に人々を従わせようとする力が強く働いていた。「議論してはならない」が、いわばこちらの方の流れを代表する標語であるかのごときであった。「人間とは自由な存在に他ならない」という認識がかつてない規模で広まりつつあったからこそ、逆に、生まれつつあるその自由を何とか押しとどめておこうとする風潮もまた強まっていたわけである(人間存在の自由に鎖をかけようとする「ウィーン体制」はいわば革命以前、あるいはナポレオン以前からすでに機能していたのだと言うこともできるかもしれない)。
 
 
 しかしまた、他方では、そうした力では到底押しとどめることのできないような自由の雰囲気もまた、この時代には至るところに現れ始めていたのである。「私たちは大いに考え、議論しようではないか」という声が、そこかしこで聞かれた。こうした時代のただ中にあって、1784年当時には円熟した哲学者の域に達しつつあった60歳のイマヌエル・カントは、「啓蒙とは何か」を書くことで、同時代の人々に向かって次のような意味の呼びかけを行っていたのだと見ることもできそうである。「私たちの目前に、一つの根底的に新しい時代がやって来つつある。兄弟姉妹よ、今しばらくの辛抱だ。」もはや、「単独な現存在」を各人が引き受けることを恐れるには及ばない。誰もが自分自身の理性を用いて物事を考え、本当の意味で互いの尊厳を認め合う時代がやって来つつあるのだから、というわけである。
 
 
 
現存在 存在と時間 啓蒙とは何か ベルリン月報 フランス革命 ウィーン体制 ナポレオン 批判哲学 共同相互存在 死への先駆
 
 
 
 短いテクストではあるが、カントが書いたこの「啓蒙とは何か」からは、2022年初頭の現在を生きている私たちもまた多くのことを学ぶことができるのではないだろうか。このブログとしては、ここに「一つの時代にあって、哲学のリーダーであるとはいかなることか」という問いについて考えるための、この上ない手がかりを見出してみたいのである。
 
 
 一般に言って、リーダーがなすべきこととは、自分自身のやりたいように事を進めるのではなく、「私たちはこちらの方向にこそ進んでゆこうではないか」と、責任を持って人々に呼びかけることなのであって、恐らくは、こと哲学に関してもこのことは変わらない。彼あるいは彼女は、自分自身が生きている時代そのものと誰よりも深いところで対話し、いま何が問題とされるべきであるのか、思索は何を思考し、どこへ向かってゆくべきであるのかという点について、ひたすらに考え抜くのでなければならない。
 
 
 いま論じているテクストにおいてカントが同時代の人々に提示した答えは、極めて明瞭なものであった。すなわち、「サペーレ・アウデ」、「兄弟姉妹よ、私たちは、自分自身の理性を用いて考えることを恐れるには及ばない」、である。この答えは、同時代の多くの人々も認識し、あるいは予感していたものではあったことだろう。しかし、ヨーロッパの歴史がカントに与えた役割は、この答えに対して誰よりも明瞭な定式化を与え、同時代の人々に対して、彼にしかできない励ましの言葉を贈ることであった。そして、カントはこの役割を、彼自身に与えられた最も固有な存在可能を引き受けることのうちで、立派に成し遂げたのである(この論文自体はごく小さなものであったが、カントがもっと大がかりな仕方においても同じ役割を果たしたことは、今の時代を生きている私たちにもよく知られている。すなわち、2022年の現在においてもなお熱心に読まれ続けている、彼自身の「批判哲学」の完成と提出である)。
 
 
 「単独者」あるいは「単独な現存在」というと、何か孤独なイメージがつきまとう。しかし、「単独な現存在であるという務めを真正な仕方で引き受ける」とは、一つの時代にあって、他者たちと本来的な仕方で共同相互存在することへと向かって妥協することなく自分自身の道を歩み続けることをも意味するのではないだろうか。カントの「啓蒙とは何か」はこの点について、現代を生きている私たちに対して力強い証言を与えてくれているもののように思われるのである。私たちは以上の議論をもって、『存在と時間』の論理に即して「共同相互存在の本来性」について後に論じるための下準備を整えたということにして、ここから先は、「死への先駆」についての議論を仕上げる作業に再び取りかかることとしたい。