イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「現存在であるわたしが、後ろを振り返ることのできない理由」:『存在と時間』における「全体的存在可能」の概念

 
 私たちの探求は、「死への先駆」が提起する問題の核心の部分に到達しつつある。
 
 
 論点:
 「死への先駆」は、現存在であるわたしが、自らの「全体的存在可能」を実存する可能性を開示する。
 
 
 この「全体的存在可能」、あるいは「全体としての現存在」という論点は『存在と時間』後半部の議論にとって非常に重要なものなので、しっかりと論じておかなければならない。この論点については、以下の三つのことを指摘しておくこととしたい。
 
 
 ① 「死への先駆」は、現存在であるわたしが今日にも、あるいは明日にも死ぬかもしれないという可能性をわたしに引き受けさせることによって、次の二つの可能性を「可能性の全体」として開示する。すなわち、先駆することのうちでわたしは、実存カテゴリーとしての〈ひと〉を生きるという仕方で、これまで通りに非本来的な仕方で実存し続けるのか、それとも、「わたし自身の最も固有な存在可能」を掴みとることによって本来的な仕方で実存し始めるのか、という二者択一のうちに置かれるのである。「死への先駆」が開示する「全体的存在可能」とはその根源においては、仮借のない二者択一として提示される「生の可能性の全体」にほかならない。
 
 
 ② このような「生の可能性の全体」、あるいは二者択一の深淵のうちで、現存在であるわたしには生なるものの本当の姿が、いまだかつてないほど明瞭に見えるようになってくる。すなわち、先駆することにおいては、余計なこと、偶然的なことは全て取り払われ、核心的な物事だけがわたしに対して切実に迫ってくるのである。「先駆」のモメントはわたしに対して、わたし自身の生に対する本来的な理解をもたらさずにはおかないのである。
 
 
 ③ こうしてみると、先駆することによって開示される「生の全体性」とは「隠されていた全体性」に他ならないことが鮮明に理解される。本来的な実存の可能性は、現存在であるわたし自身が自らの死の可能性を引き受けることによって、はじめて啓示される。彼方に望み見られる彗星のように、わたし自身の「最も固有な存在可能」は、「先駆」のこの瞬間に至ってついに開示される「わたしの生きる意味」として、日常性の次元そのものを破砕する。
 
 
 
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 「先駆することが、もっとも極端な可能性として実存に開示するのは自己放棄であり、先駆はかくて、そのつど到達された実存に固執することのいっさいを打ちくだく。」(『存在と時間』第53節より)
 
 
 ハイデッガーはなぜ、「死への先駆」においては、それまでの生の過程において獲得してきたものに固執することが不可能になってしまうと主張するのだろうか。それは、先駆することにおいては次のような核心的な問いが、現存在であるわたしのもとに、避けようのない仕方で迫ってくるからに他ならない。
 
 
 問い:
 現存在であるわたしは、死に至る前にわたし自身の「最も固有な存在可能」に到達することを望むのか、それとも、望まないのか?
 
 
 すべての物事の終わり、あるいは世界内存在の終わりそのものが差し迫っているのであってみれば、現存在であるわたしには、立ち止まっている時間も、今までの自分自身のあり方にこだわり続けている余裕もないのである。なぜならば、わたしが自分自身の「本来的な自己」には、わたし自身が「そのために生き、そのために死ぬことのできる『意味』」にはいまだなお到達していないのであってみれば、わたしが「今のわたし自身」のもとにこのままとどまり続けていてよい理由が、一体どこにあると言えるのだろうか。「全体的存在可能」の概念はかくして、キルケゴールが、また、『存在と時間』よりも後の時期のハイデッガーが用いていた言葉を用いるならば、「跳躍」の問題を提起せずにはおかないのである。すなわち、死に追いつかれてしまう前にわたしが「わたし自身の最も固有な存在可能」を掴みとるために行わなければならない、命がけの「跳躍」の問題をである。
 
 
 こうしたことの全ては、日常性の見方からするならば何かとても極端で、途方もないものにも見えるものであることは否定できない。しかし、キルケゴールハイデッガーたちの見方の側にも分があるとすれば、それはまずもって「私たちは、私たち自身の『可能性に関わる存在』を実存している」という実存論的な事実に目を向けさせてくれる点に存すると言えるのではないだろうか。人間の生のうちには、「全体的存在可能」による開示によってしか明かされえないような、隠された可能性が潜在している。実存の哲学が私たちに対して提示する生のヴィジョンは決して容易に達成できるようなものではないけれども、その探求は、私たちが本当の意味において「幸福」と呼ぶことのできるような目標の方へと力強く差し向けられているのだと見ることも、できなくはないのかもしれない(「『戦い続けることの幸福』なるものは存在するか」という問いはおそらく、哲学の問いとして真剣に問うに値するものと思われる)。
 
 
 
 
[昨日のツイートは、いつもよりも多くの方に読んでいただくことができました。個人的な事情にはなってしまいますが、このブログの筆者には、「実存の本来性」という主題についてしっかりと考え抜かなければならない時期が今まさにやって来ているようです。探求を分かち合ってくださる方がいることに感謝しつつ、一歩一歩、じっくりと進んでゆくことにします。]