イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

哲学の使命:あるいは、パスカルはいかなる点において、自分自身の時代を代表する哲学者に対して抵抗せざるをえなかったのか

 
 今回の記事では「賭け」の議論に立ち戻りつつ、パスカルの思索の戦いの歴史的な文脈について考えてみることにしたい。
 
 
 論点:
 パスカルにおける「賭け」の議論の全体は、デカルト主義における「幾何学的な秩序を備えた論証による、絶対確実な真理の導出」というイデーに対抗するものであったと言えるのではないだろうか。
 
 
 デカルトにとっての問題とは、「思考することのうちで、どれほど疑ったとしても絶対に疑うことのできない真理を見出すこと」に他ならなかった。彼が懐疑することのうちで「コギト・エルゴ・スム」、すなわち、「思考するわたし」の発見に至ったことが、17世紀における根底的に新しい哲学の出現を可能にしたことは、21世紀初頭の現代を生きている私たちにもよく知られている。
 
 
 デカルトの哲学は、その最大の武器であった「明晰判明性」(あるいは、「確実性としての真理」)という原理の強力さもあって、当時の全ヨーロッパの哲学の世界の地勢図を塗り替えずにはおかなかった。しかしながら、思索者としてのパスカルの最晩年の戦いの要点は、まさしくこのデカルトによる「絶対に確実な真理」というイデーの不当な拡大に対する糾弾にこそ向けられていたのである。
 
 
 デカルト哲学においては、「考えるわたし」の存在の導出に引き続いて、「神」の存在の論証がなされる。その論証の詳細を確認することはここでは控えることとしたいが、私たちが目下論じている文脈において重要であるのは、デカルトにおいては、「神」の存在の導出もまた「確実な真理の論証」の連鎖のうちに収まっているという点に他ならない。「考えるわたし」から「神」へ、そして「物体や身体からなる世界」へという思考の進行は、デカルト主義においてはいわば傷のない、ひとつながりの過程をなしているのである。
 
 
 ところが、これこそがまさに、パスカルデカルトに対して最大の批判を向けざるをえないところの「『絶対確実性』というイデーの不当な拡大、あるいは根拠のない適用」に他ならなかった。なぜならば、パスカルによれば、「神」なるものの存在というのは人間の理性にとっては、およそ確実なものなどではありえないからである。
 
 
 
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 「神なるものの存在を証明することは、人間の理性によっては不可能である。」現代を生きている私たちの目からすれば当然のものにも見える、このような考え方は、17世紀の人々にとっては(少なくとも表向きには)大々的に論じられることのないものであった。後に見るように、パスカルの神観はこの点に関する限り、後に神の存在論証そのものに決定的な仕方で破産宣告を突きつけることになった、カントの『純粋理性批判』の神観を部分的に先取りしているのである。
 
 
 すでに見たように、パスカルにとっては信仰の、そして、実存することの最大の問題とは「賭け」の問題に他ならない。すなわち、「神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という問題は理性による論証の領域に属するのではなく、二者択一による「実存の選択」の領域にこそ属するのであって、この問題を、理論的証明によって傷のない仕方で扱えるかのように見せかけているデカルトの哲学は、彼によれば、欺瞞以外の何物でもありえなかったのである。
 
 
 「私はデカルトを許せない。彼はその全哲学のなかで、できることなら神なしですませたいものだと、きっと思ったことだろう。しかし、彼は、世界を動きださせるために、神に一つ爪弾きをさせないわけにはいかなかった。それからさきは、もう神に用がないのだ。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片77より)
 
 
 パスカルは他の箇所では、「無益で不確実なデカルト」という言葉も用いている。この言葉に果たしてどれほどの妥当性があるかどうかは別にするとしても、『存在と時間』における「全体的存在可能」の概念が提起する問題を追っている私たちとしては、ここでのパスカルの主張の要点から、次のような主張を引き出すこともできるのではないかと思われる。すなわち、実存することの高揚がその頂点にまで至るとき、そこで問われるのは選択あるいは決断の問題、つまりは「賭け」の問題以外の何物でもないのであって、ここでは単なる理性的推論による論証の連関に頼ることは不可能である。論証の過程を不当に拡大し、絶対視しようとする全ての哲学はこの点において、「賭け」あるいは「先駆的決意性」の問題を見ないという、実存論的分析の観点からすれば看過することのできない誤謬を犯しているのである、と。生そのものに内在する不確実性というものが存在しているのであって、この不確実性を不確実性として守り抜くことは、哲学の使命の一つであると言えるのではないだろうか。私たちは、パスカルが戦った思索の戦いの文脈に定位しながら、この論点についてもう少し詳細に掘り下げてみることとしたい。
 
 
 
 
[この二ヶ月ほどの無理が疲労に出てしまったため、火曜日の更新はお休みさせていただきました……。年末にも体調が崩れかけたことがあったので、生活のリズムを変えなくてはいけないというサインと受け止めて、更新の頻度などを見直したいと思います。ただ、これまで以上に熱を入れてひたすら哲学に打ち込み続けたこの二ヶ月ほどは、筆者にとっては忘れられない期間になりました。探求に付き合ってくださった方がいたことは、感謝というほかありません。態勢を立て直して活動を再開したいと思いますので、よろしくお願いいたします。]