イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「最も根源的な真理とは、実存の真理である」:パスカルの場合を通して、『存在と時間』の根本テーゼについて考える

 
 今回は、パスカルが残した次の言葉を読み解くという形で探求を進めてゆくこととしたい。
 
 
 「哲学をばかにすることこそ、真に哲学することである。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片4より)
 
 
 すでに触れたように、パスカルが生きていた17世紀に開始された「デカルト革命」は、急速に発展しつつあった幾何学の思考法を武器とすることによって哲学の世界のあり方を塗り替えていった。「三角形の和は二直角(180度)である」のような命題は、個々の人間に有無を言わせないような確実性、あるいは明晰判明性を備えている。哲学の営みも、明晰判明な仕方で思考するよう自らの精神を導くことによって、同じように絶対的な堅固さを獲得できるのではないかと考えられたのである。
 
 
 しかしながら、思索者としてのパスカルの行ったことは、この「デカルト革命」の軌道に乗った上でそれを展開するというよりもむしろ、この革命の精神をこの上なく深く理解した上で、この精神が突き当たらざるをえない限界の存在を、自らの思考と実存を賭けて指し示す、といったものであった。
 
 
 パスカルの「賭け」の議論においては確率計算のロジックが持ち出されることによって「神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という二者択一が問われることになるけれども、そこにはデカルト主義に見られるような、絶対確実性のイデーがもたらす安定はまったく存在しない。むしろ、問う人間は、不確定な二者択一が突き付けてくる根源的な「不安」に直面させられつつ、実存の深淵において選択することを強いられるのである。あたかもパスカルにおいては、17世紀の哲学を突き動かしていた幾何学的論証の力が、人間存在に自信を与えるためにではなく、「死に至る病」であるところの絶望(実存することそのものの、危機にして頂点)を指差すために用いられているかのようである。「哲学を馬鹿にすることこそ、真に哲学することである」という彼の言葉はこの意味からすると、いささかも誇張ではないと言えるだろう。『パンセ』において、パスカルは自らの時代の哲学の方法を、いわば哲学それ自体を窮地へと追い込むために使用しているのである。
 
 
 
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 幾何学的論証が提供する「明晰判明性」のイデーに没頭することによって、人間存在が抱えている「不安」と「絶望」の深淵を見落とすということ、それが、17世紀の哲学が陥った無意識的な自己欺瞞、あるいは陥穽に他ならなかった。思索者としてのパスカルは、自らの「単独な現存在」を引き受けながら、この時代が覆い隠そうとしている病を指し示し、それを言い表す言葉と文法を見出すことに苦闘し続けたのであるが、このような企てを行ったのが稀に見る幾何学的な才能の持ち主であったという事実のうちには、何か真に驚嘆すべきものがあると言えるのではないか。
 
 
 幾何学的思考法の限界を指摘し、「デカルト革命」に対して「この革命は考え抜くべき真の問題、すなわち、絶望の問題を看過している」と声を上げた人間は、幾何学に無知な人間ではなかったのである。むしろ、パスカルは子供の頃に「三角形の和は二直角である」を誰にも教えられることなくただ一人で発見(!)し、16歳の頃には歴史上で最も優れた円錐曲線論を書き上げ、そしてすでに見たように、歯痛の苦痛を忘れるために数学史を塗り替える発見をするといった類の人物だったのであって、一言で言うならば、一個の紛れもない天才以外の何物でもなかったのである。その彼が、幾何学的思考法の絶対性を称賛する代わりに、実存あるいは絶望の問題に関連して、この思考法に対して早くも決定的な破産宣告を突きつけたというわけなのであった(この意味からするならば、『パンセ』のうちに見られる思考は確かに、理性によって理性自身に対して破壊的な「否」の契機を指し示すという点において、『純粋理性批判』の仕事を先取りしているのである)。
 
 
 「最も根源的な真理とは、実存の真理である」という『存在と時間』の根本テーゼが、ここで思い出される。哲学の言葉が決定的な仕方で真実を開示するとき、その開示の出来事を支えるのは、究極的にはその言葉を語る哲学者の実存そのものに他ならない。ブレーズ・パスカルは、17世紀の哲学に対する死に物狂いの思索の闘争のうちで、「人間はいかにして生きるべきか?」という仮借のない問いを、読者たちに提起する。その問いは、いまだその圏域を指し示す言葉も存在しないうちから、やがてその後に「実存」と呼ばれることになる開示性の深淵へと差し向けられているのである。
 
 
 
 
[今回の記事の最後の部分で取り上げた「最も根源的な真理とは、実存の真理である」は、『存在と時間』の中でも最も重要なテーゼの一つなのではないかと思います。ハイデッガーは後に「実存」の哲学者とのレッテルを貼られることを懸念して、自分自身の思索のこの側面を強調することを控えるようになりますが、このブログにおける読解は、あえて一度「実存」の概念が巻き起こす巨大な嵐の中へと突き入ってみることを目指しています。それは読解者自身が、2022年現在の時点においてもこの概念にはなおアクチュアルなものが含まれていると考えるからに他なりません。後期ハイデッガーの思索については、『存在と時間』の読解を終えた後に論じたいと思います。]