イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「見よ、すべてが新しくなったのである」:賭けに出ることへの「ためらい」の問題に対する、『パンセ』の処方箋

 
 「賭け」に関する議論も、そろそろ大詰めである。『存在と時間』の方に戻ってゆくという意味でも、私たちは最後の主題として、次のような問いについて改めて考えておくことにしたい。
 
 
 問い:
 「『実存は賭けである』というテーゼについては、確かに了解した。しかし、日常性の側から見るならば、そのようにスケールの大きな話を振られたとしても、恐らくは、どうしてよいか分からないものと思われるのである。『賭けに出ることへのためらい』という問題については、どう考えたらよいのか?」
 
 
 まずはパスカル自身の議論に即して、問題を整理してみる。今ここに、「神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という二者択一に際して、「神は存在する」の側へと傾きかけている人がいるとしよう。すなわち、その人は「神の存在を信じて生きる」という、その人にとっては未知の生の可能性に向き合っている。いまだ確信するまでは至っていないとはいえ、彼あるいは彼女としては、どうもそちらの方に善があるのではないかという気がしているのである。
 
 
 当然のことながら、その人は大いなる躊躇のうちに置かれることだろう。なぜならば、「神の存在を信じる」というのは彼あるいは彼女にとって、それまでと同じ人間ではなくなって、全き意味における「新しい人」として生き始めることを意味しているからである。パスカルは、「賭けに出ること」をためらっている読者を対話相手として想定しながら、『パンセ』断片233を書いている。このような「ためらい」が出てくることは、「跳躍する」という行為の途方もなさについて少しでも考えるならば、まことに無理からぬことなのではないかと思われる。
 
 
 パスカルは「神の存在」の問題に関連してこの「ためらい」の契機について論じているが、この契機が、「賭けとしての実存」一般にも当てはまることは明らかだろう。「賭けに出ること」は言うまでもなく、大いなるリスクを引き受けることを意味している。実存そのものを賭けて自分自身の「最も固有な存在可能」に向かって跳躍してゆくための決断を下す勇気が出てこないとしたら、現存在であるところのわたしは一体、どうすればよいのだろうか。なすべきこと、賭けるべき対価、そして、掴み取るべき「わたし自身」の内実は見え始めているというのに、実際の行為に移ることだけはできないとしたら?
 
 
 
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 このような疑問に対してパスカルが提案している方策とは、次のようなものである。
 
 
 「以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より)
 
 
 パスカルが断片233の最終部分において強調している事実とは、この世界には、実際にすべてを賭けるようにして生きている、異様な人々の群れが存在するという事実に他ならない。こうした人々は確かに、数としては少数かもしれない。しかし、それにも関わらず存在していることは確かなのであって、私たちとしては、彼ら自身の生きざまから何かを学び取ることはできるのではないかというのが、ここでのパスカルの提案なのである。
 
 
 パスカルのこの提案は実際、立ち止まって熟考してみるに値すると言えるのではないか。実存することの全体を一つの大きな「賭け」として捉えるならば、当然思い浮かんでくるのは失敗の可能性の方かもしれない。「人生そのものを賭けたわたしの挑戦が、全く身を結ばずに終わるとしたら?そのような可能性があるのだとしたら、わたしとしては日常性の次元のもとに踏みとどまって、今のままの生き方を続けている方がよいのではないか……?」
 
 
 「持ち物すべてを賭けている人たち」は、何も躊躇していない。彼らはただ、後ろのものを忘れ、前のものへと前進を向けて、自分自身の「最も固有な存在可能」に向かってただひたすらに走り続けている。その様子には、「これこそが生きるということなのか」と思わせずにはいない何物かがあると言えるのではないか。それでは、「持ち物すべてを賭けている人たち」はなぜ、そのように「賭けに出ること」の方へと自分自身を投げ入れてゆくことができるのだろうか。ここからは、「死への先駆」を通して「全体的存在可能を生きること」の可能性を問うという『存在と時間』の探求の主題に関しても、少なからぬことを学ぶことができそうである。「新しい人」として生き始めるとは一体、いかなることを意味しているのか。「賭け」に関する議論を仕上げるためにも、引き続きパスカルの言葉に耳を傾けてみることにしたい。
 
 
 
 
[「実存の本来性を獲得することのうちで、日常性を突き破ること」が『存在と時間』の道行きの主要モチーフとなっており、この本の探求の過程においては、私たちの生を形作っている「日常性」の次元は、少なくともいったんは打ち破られることになります。しかし、このことは決して私たちの日常の日々を否定するために行われるのではなく、日常の世界のもとに、日常的ではない仕方で戻ってゆくためになされると言えるのではないか。この点については、「死への先駆」の次に論じられる「決意性」に関する議論において、ハイデッガー自身のテクストに即しながら論じることにしたいと思います。]