イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「不安」こそが、実存のリアルを開示する:Sein zum Todeにおける真実の問題

 
 「死への先駆」の概念の掘り下げも、そろそろ大詰めを迎えつつあるようである。ハイデッガーが垣間見ていた「実存の本来性」の深みへと潜ってゆくことを目指して、仕上げの作業に取り組むこととしたい。
 
 
 論点:
 「死への先駆」は、人間存在を脅かしている深淵をもはや恐れることなく、根本的情態性であるところの不安のうちへと、決然として飛び込んでゆく。
 
 
 死の可能性とは人間にとって、「最も固有な、関連を欠いた、追い越すことのできない、確実な、それでいて未規定的な可能性」に他ならなかった。この「未規定的」という契機に着目するとき、実存論的分析の目の前に、「死へと関わる本来的な存在」の最後の次元が開かれてくる。
 
 
 改めて考えてみる。死の可能性は、現存在であるわたしにとっては「未規定的な」ものである。つまり、「わたしの死」という出来事はいつ襲ってくるか分からないのであって、わたしは本当は、今のこの瞬間にも、あるいは次の瞬間にも決定的な仕方で破滅する可能性にさらされている。王座に着いた人間の上には、いつでもその人間の命を一瞬で奪い去ることのできる剣が吊り下げられていると言われている。日常性の次元はこうしたことを半ば意識的に、半ば無意識的に忘却しようと努めているけれども、人間存在はその真実の姿においては、この「ダモクレスの剣」によって常に脅かされ続けるという運命のうちへと投げ込まれているのである(被投性の極限としての「死への被投」)。
 
 
 「死への先駆」はもはやこの不断の脅かしから目を背けることなく、まっすぐにこの脅かしの中心へと突き進んでゆく。ところで、現存在である人間に対して、自分自身の存在のありようを他のいかなる現象にもましてダイレクトに開示するのは、「気分」の現象に他ならないのだった。「死への先駆」は、根本的情態性である不安の深淵のうちへと覚悟して飛び込んでゆくことによって、人間が絶えず身を置き入れているところの「死へと関わる存在」をこの上なく深く鋭い仕方で開示し、輝かせ、閃かせずにはおかないのである
 
 
 
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 「すべての理解は情態的な理解である。気分によって現存在は、『現存在が現にそこに存在している』という被投性のまえにもたらされる。しかしながら不断の端的な脅かし、しかも現存在のもっとも固有な単独化された存在から立ちのぼってくる、現存在自身の脅かしを、開かれたまま保つことのできる情態性は不安である。」(『存在と時間』第53節より)
 
 
 開示すること、覆いをとって発見することこそが、人間存在を「真理へと関わる存在」としてしるしづける契機なのであるとすれば、実存の極限的な可能性を開示する「死への先駆」は、まさしくアレーテイアの究極的な次元を指し示すものであると言えるのかもしれない。真理の次元と、存在論的命題としての「わたしが死ぬ」をダイレクトに結びつけるハイデッガーの発想によって、私たち人間存在が古来から語り続けてきた「メメント・モリ」の教えに改めて強烈な定式化がもたらされつつ、現代哲学の戦場に告げ知らされたことは、ここで注目しておいてよいものと思われる。哲学の戦いは事実そのものというよりも、ある事実についてどのような概念の布置や問題構成のもとで語るか、そして、そのことによってどのような概念的直観が可能となるかに賭けられているとも言えるからである。
 
 
 ところで、死の可能性をめぐるこのような議論に対しては、「そのように陰鬱な事柄を、なぜわざわざ考えなければならないのか?」といった見解もあるかもしれない。そのような見方に対しては、「哲学の営みは『真実らしく見えるもの』をではなく、『真実そのもの』を追求しなくてはならないがゆえに」と答える他はないのではないか。
 
 
 すなわち、リアルであらねばならないことには「リアルであらねばならない」以外の理由も必然性も存在しないのであって、自己自身に対するあらゆる種類の欺瞞を振り捨てて、哲学の営みは「わたしは、わたし自身の真実に到達しなければならない」へと身を置き入れてゆかざるをえないのではないだろうか。1927年に出版された『存在と時間』が当時の人々に与えた衝撃の一因は、おそらくはこの辺りの事情にもあったものと思われる。つまり、その本は当時の他のあらゆる哲学にもまして、圧倒的なほどまでにリアルだったのである。「死への先駆」をめぐる議論も終わりに近づいているが、次回の記事では、この概念の総括の作業に取りかかることとしたい。
 
 
 
 
[今回の記事の後半では前回に引き続いて、プラトンにおける「真実そのもの」と「真実らしく見えるもの」との対立において、「先駆」による開示を捉え直そうと試みています。「死へと関わる存在 Sein zum Tode」のこの開示が、「不安」という気分のうちへの突入と共にしかなされえないことを示したことが、ハイデッガーによる実存論的分析が獲得した重要な成果の一つでした。哲学史におけるプラトンの位置は揺るぎないものであるとされていますが、彼がその生涯を賭けて、一体何と戦っていたのか、彼の問題意識がどこにあったのかという点になると、実感を伴って理解するのは必ずしも容易ではないように思います。ハイデッガー自身が講義のうちではプラトンのテクストについて論じ続けていたことも関連しているものと思われますが、『存在と時間』におけるハイデッガーの議論には、プラトンのモチーフと重ねて考えることのできる部分が少なからず存在しています。読解の主要な目的はあくまでもハイデッガー哲学の理解にありますが、「プラトンの問題意識に迫る」という試みにも、要所要所で取り組んでみることにしたいと思います。]