イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「哲学の隠れた王」:ハンナ・アーレントの証言を通して、『存在と時間』出版以前のハイデッガーの状況を探る

 
 「良心の呼び声」の分析へと向かう準備作業として、『存在と時間』が出版される1927年以前の状況に遡った上で、この本が哲学の歴史において持つ意味について、改めて考えてみることにしたい。
 
 
 論点:
 20世紀の哲学の歴史の流れを決定づけた書物である『存在と時間』が出版される前、マルティン・ハイデッガーは、すでにドイツ全土でその名を知られる存在となっていた。
 
 
 この点については、当時の生きた証人であるハンナ・アーレントの言葉に耳を傾けてみることにしよう。後年のアーレントはその頃のハイデッガーの「名声」について、いささか奇妙だと思われる点を指摘している。
 
 
 「この名声にはどこか奇妙なところがありました。[…]ハイデガーの場合には、名声の土台たりうる作品といったものはまだ一つとしてなかったのです。手から手へ渡っていった講義筆記録を別とすれば、著作はなにもなかった。[…]あったのは一つの名前ばかり。しかしその名前が、あたかも世間の目から隠された王の噂のように、ドイツ中を駆けめぐったのです。」
 
 
 彼女が指摘するように、ハイデッガーは20代の半ばに教授資格論文を提出して以降、論文や著書を何一つ発表していなかった。公的な次元においては、その活動は言ってみれば秘密のベールに包まれていたわけであるが、それでいて彼は「哲学の隠れた王」として、学生たちにその存在を知られていたのである。
 
 
 まだコピーもインターネットも存在していなかった時代に、ハイデッガー講義ノートは、手渡しでドイツ中を駆けめぐっていた。「何かとてつもないことが起こっているらしい」というような時には、人間はそれを語り伝えずにはいられないもののようである。噂が噂を呼び、「哲学の世界に革命を起こそうとしている、とてつもない教師がいるらしい」「この20世紀の現代に、プラトンアリストテレスのテクストを掘り起こして、古代のレジェンドたちと同じレベルで問いを問おうとしているらしい」等々といった言葉が学生たちの間で、際限なく広まっていった。
 
 
 彼の弟子として、後には自分自身の哲学を展開してゆくことになるゲオルク・ガーダマーは、まだハイデッガーの存在を直接には知らなかった時期に、内々に書かれた「ナトルプ報告」の原稿を読んで「電撃に打たれる」という経験をしている。当時の学生たちが「ハイデッガー現象」に際して経験したのはまさしく、「電撃に打たれる」というほかないような衝撃であったもののようである。他のものが全て何もかも色褪せて見えるほどに、その体験は圧倒的なものであった。彼らは、「これが哲学というものなのか」というすさまじい驚愕を一様に味わったのである
 
 
 
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 この逸話に関して現代を生きている私たちが注目しておくべきは、当時30代のマルティン・ハイデッガーが、公の次元で活動することよりも、彼の周囲に集う人々を巻き込んで妥協なく哲学することの方を意識的に選択したという点なのではないだろうか。
 
 
 「いろいろと本を出したり文筆上の大騒ぎするのは世間に任せて、私は若い人たちを自分のそばに引き寄せようと思います」(1923年7月14日付、ヤスパース宛書簡)。この文章にも端的に見られるように、彼自身は世間の注目を集めるよりも、地下へと潜行して「哲学の革命」を準備することの方を明確に選び取っていた。きわめて突飛な動き方ではあるが、改めて考えてみると、この選択のあり方は哲学の営みの本質そのものに照らしてみても、非常にうなずかされるものだったのではないかと思われなくもない。
 
 
 哲学の営みというのは一人で追い求めるのではなく、それを受け止めてくれる人々が周囲に存在する時にこそ、独特の熱気を帯びてゆくもののようである。概念は、事象そのものをえぐり出すかのように深く鋭い仕方で彫琢されてゆき、イデーはそれに耳を傾ける人々も、語っている当人の思惑をさえも超えて、見事なまでに飛翔してゆく。哲学は、それを分かち合う人々の間で飛び立ってゆき、その時代を画する伝説的な出来事となるのである。だからこそ、哲学の言葉を語る人間は何よりも、その言葉を受け止めてくれる人々との間に築かれる真剣な関係の構築をこそ、気づかわなくてはならない
 
 
 ハイデッガーはこの辺りの事情を、おそらくはほとんど本能的とも言うべき身体感覚を通して掴み取っていたものと思われる。その結果、彼の周囲には、まだ彼が主著の一つとなる『存在と時間』を出版するよりもはるかに以前から、「哲学の革命が今まさに準備されつつある」という嵐の前の静けさの雰囲気が醸成されていった。『存在と時間』の冒頭部分や、この本の各所に漂っているただならぬ空気感はおそらく、こうした歴史的状況との関連なしには理解することができないのではあるまいか。私たちは、この本が出版される以前のハイデッガーをめぐる状況について、もう少しだけ詳しく掘り下げておくこととしたい。
 
 
 
 
[『存在と時間』の山場の一つである「良心の呼び声」の前に準備作業を置くことには、主に言って二つの理由があります。一つはこの主題を問うための焦点として「自己」の問題をあらかじめ浮かび上がらせておくことであり、これについては次回以降に論じます。そして、もう一つは、「歴史性」の視点を前もって導入しておくことです。現存在である人間が本来的な仕方で実存するとき、その実存は必然的に歴史的なものとならざるをえないというのが、『存在と時間』の根本テーゼですが、今回の読解では、「『歴史忘却の時代』のただ中を生きている2022年現在の私たちにとって、歴史を生きるとはいかなることか」という問いに対する答えをも探ってゆきたいと考えています。昨年の11月頃からは「実存の本来性」についてブログでもTwitterでも書き続け、とてもありがたいことに、関わってくださる方々とそれを分かち合うことができたというような実感があります。ここから「自己」や「良心の呼び声」、そして「歴史性」を経て、最後には『存在と時間』というタイトルの「存在」と「時間」とを根源的な仕方で経験し直すことができるのか。少し時間はかかってしまうかもしれませんが、20世紀哲学の最高峰の一つへの挑戦にお付き合いいただけるなら、筆者としてはこれ以上の喜びはありません。]