イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「存在論の歴史の破壊」:『存在と時間』の出現と共に、人々は、時空感覚が歪むのを感じた

 
 1927年に出版された『存在と時間』が当時の人々にもたらした衝撃の内実とは一体、どのようなものだったのだろうか。この点についての理解を深めるために、今回の記事では、以下の論点について掘り下げておくこととしたい。
 
 
 論点:
 『存在と時間』の序論部分に位置している第六節は、「存在論の歴史の破壊という課題」というタイトルを付されている。
 
 
 「破壊」とは非常にインパクトのある言葉であって、おそらくは当時の人々の中にも、「アカデミズムの本で『破壊』は、さすがにやり過ぎなのでは……」と思った人は、決して少なくなかったものと思われる。こういったパワーワードを断固たる決意と共に持ち出せてしまうところが、ハイデッガーという哲学者の、危うさをはらんだ魅力ともなっていることは確かである。この節で彼が主張していることを、簡潔に見ておくこととしたい。
 
 
 私たち人間存在は、さまざまな伝統のうちで生きており、哲学の世界のうちにも、もちろん伝統は存在する。伝統というのは、「これまで『間違いないクオリティを持つもの』」として伝承されてきたものを意味する言葉であるから、普通に言えば善いものに属することは確かなものと思われるが、『存在と時間』第六節においては、ハイデッガーはあえて、「伝統とは善なるものである」というものの見方に対して疑義を差しはさむ。
 
 
 なぜならば、伝統というものは、場合によっては人間を「当たり前」の雰囲気で押し流し、真正な仕方で問うことを忘却させ、根源的な事象を覆い隠すことに寄与してしまうこともありうるからである。人間存在は世界のうちに頽落しているだけではなく、自分たちが作り出し、伝承し続けている伝統のうちへも「頽落」している、すなわち、伝統の厚みによって窒息させられるただ中で、リアリティとは何かを決定的な仕方で見失っている。「存在の意味への問い」が見失われ、忘却されているのも、哲学の営みが「伝統への頽落」を通して自分自身のリアルを忘れ去ってしまっているからに他ならないのであって、だからこそ、伝統の中で遮蔽幕として機能している部分を、断固として打ち砕かなければならない。この作業を、ハイデッガーは「古代存在論から伝承されてきた在庫の破壊」と名づけるのである。
 
 
 

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 「存在の問いそのもののために、その問い固有の歴史が見とおしよくされるべきである。そうであるなら、硬直した伝統を解きゆるめて、伝統によって張りめぐらされた遮蔽幕を取りのぞくことが必要である。こうした課題を私たちは、存在の問いを手引きとして遂行されるべき、古代存在論から伝承されてきた在庫の破壊と理解する。この破壊は根源的な経験に基づいて遂行され、そうした経験のうちで存在の最初の諸規定、以後も主導的なものとなってゆく諸規定が獲得されるのである。」(『存在と時間』第六節より)
 
 
 ただし、「破壊する」といっても文字通り全てを打ち砕くわけではなく、その目的は上の文章においても語られているように、歴史を打ち壊すことにあるというよりも、歴史の見通しをよくすることにある。すなわち、「存在の意味への問い」あるいは「存在」をめぐる歴史こそが哲学のアルファでありオメガであることを見やすくするために、余計なものは削ぎ落としながら根源的な事象をめぐる歴史のもとへと回帰してゆかなければならないのであって、この意味からするならば、「破壊」には積極的な意義があると言うこともできそうである。つまり、繰り返しにはなってしまうけれども、「破壊」の作業は、歴史の本来の姿をこの上なくクリアーなものとするのだ。
 
 
 1927年当時にこれらの主張を浴びせかけられた人々が体験した衝撃について、ここでは二つの側面から論じておくこととしたい。
 
 
 まずは、彼らの抱いていた歴史的常識が、それこそ容赦なく粉々に破砕されたという側面である。たとえば、デカルト、カント、フッサールと続く近代哲学の王道路線は哲学の進歩あるいは目覚めなどではなく、場合によっては根本事象への遮蔽幕としても機能しかねないというハイデッガー歴史観は、彼らにとってはまさしく「目が点になる」というほかないものであった。しっかりした哲学の言葉というのは、良くも悪くも、思考の磁場それ自体を歪ませてしまうような力を持っている。それまで当たり前だと思っていたものが曲がって見え始めるという異様な感覚を、彼らは味わったのである。
 
 
 そして、二つ目の側面とは、哲学の営みそれ自体がすさまじい勢いで本題へと連れ戻されるかのごとき驚愕を、彼らが体験したことである。すなわち、ハイデッガーの側から事態を表現するならば、彼らは伝統のうちへの眠り込みからいきなり呼び覚まされて、「存在の意味への問い」というリアルの中のリアルに直面させられることになったというわけなのであった。この意味からすると、1927年の『存在と時間』出版の出来事はいわば、哲学の世界に突然やって来た「黒船」以外の何物でもなかったとも言うこともできそうであるが、私たちとしてはもう少しこの地点に踏みとどまりつつ、次に「良心の呼び声」について論じるための準備作業として、この辺りの事情を「自己」の主題との関連において掘り下げておくこととしたい。
 
 
 
 
[今回の記事では、「存在論の歴史の破壊」という表現に着目しつつ、1927年の衝撃について改めて考えてみました。根源にまで突き進んでゆくすべての哲学には、ある側面から眺めるならば「破壊的」とも形容されるような、めざましい力が宿っています。すなわち、もやがかかっていたような視界の混迷状態を一気に取り払って、「事象そのもの」のリアルへと人間を目覚めさせる力にほかなりません。『存在と時間』読解の作業には思いがけず時間がかかってしまっていますが、一つ一つの論点にしっかりと目を向けることで、得られるものは確実にあるのではないかと思います。次週からは「良心の呼び声」の内容にも少し踏み込みつつ、「自己」の問題について論じてみることにします。]