イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「深淵のただ中において、あなた自身であれ!」:議論の出発点「良心は開示する」

 
 ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、良心をめぐる分析に入ってゆくこととしたい。
 
 
 「良心の分析は、その出発点として、良心という現象にかんする中立的な所見を採用する。すなわち、良心はなんらかの様式で、だれかになにごとかを理解するようにさせるという事情にほかならない。良心は開示し、それゆえに開示性としての〈現〉の存在を構成する、実存論的現象の領分にぞくしている。」(『存在と時間』第55節より)
 
 
 良心は何事かを開示する……とは言っても、そもそも「良心」という言葉自体、日常の言語使用においてはあまり馴染みがないものかもしれない。まずは、良心の経験なるものについて、常識(コモン・センス)の観点からアプローチしてみることとしたい。
 
 
 たとえば、現存在であるわたしが、Aという行為をなすに至ったとしよう。行為の後に「わたしにはこの件に関して、良心にやましいところがない!」と正面から言うことのできる場合には、実に安心(?)なものである。つまり、人によっては「この場面でAをするなんて、そんなのってありなの?」と言いたくなるようなこともあるのかもしれないが、わたしにとっては、Aをすることは「自分自身の良心からしても問題ない」のである。胸に手を当てて考えてみても、「まあこれは、少なくとも自分的にはあり」だと思えている、というわけである。
 
 
 これに反して、良心の痛みを感じたり、やましく感じたりするという場合には、わたしは何とも言えない、あのイヤな気分に襲われていることになる。つまり、「Aなんてするべきではなかった。」何となく、する前からしない方がいいような気もしていたが、した後に後悔しつつ、状況を改善するためのフォローなり、 迷惑をかけてしまいそうな相手に対する謝罪なり、今からでも何かした方がいいような気がしてくる。こういう場合には、現存在であるわたしは、いわゆる「悔い改め」の可能性にさらされていると言えるのかもしれない。
 
 
 良心の現象はこのように、現存在であるわたし自身のあり方に関して、何事かを開示する。すなわち、良心の現象は、わたし自身のあり方に対して「本当にこれでいいのか?」と問いかけることによって、わたし自身の「自己」を問いとして、あるいは問題として浮かび上がらせずにはおかないのである。ハイデッガーが「呼び声が呼ぶ」と表現するのは、このような「自己の問題化」の契機に他ならない
 
 
 
ハイデッガー 良心 現存在 呼び声 危機 実存 倫理 存在と時間 決意性
 
 
 
 私たちの人生の、あるいは生活の局面においては、次のような問いが問われることがある。今度の場合はいわゆる日常の次元からははみ出ることになってしまうが、考えてみることにしよう。
 
 
 問い:
 「果たしてこの場面において、何をするのが『正しい選択』なのか?わたしは一体、どのように行動するべきか? / To be or not to be?」
 
 
 このように問うからには、状況は多少なりとも緊迫しているわけである。そして、このように問う時には、私たちの実存はまさしくあのデンマークの王子の場合のように、謎あるいは問題として、もしくは、ある種の「危機」として浮かび上がってこざるをえないのではないか。
 
 
 なぜならば、実存の状況というのはいかなる場合にあっても、さまざまな事情が実に複雑に絡み合っていて、何をしたらどうなるかということの予想は、容易に立てられるものではないからである。よかれと思ってしたことが裏目に出てしまう場合もあるし、ぎりぎりの局面でわけも分からずしたことが、一気に状況を打開することもある。だからこそ、現存在であるわたしとしては「今のこの場面において、『できる限り正しい選択』とは何か?」と問わざるをえないわけなのであって、このことは、狭い意味における「倫理的な状況」に限ったことではない。むしろ、「正しい選択」が問われる状況というのは、「実存的な状況」とでも呼ぶのがふさわしいような危機の局面に他ならないのではあるまいか。
 
 
 「呼び声」の現象が根源的な仕方で問題となるのは、おそらくはこのような場面においてなのであって、ここにおいてはまさしく、「自己開示しながらの自己投企」とでも呼ぶべき契機こそが問われているのである。すなわち、混沌とも言える錯綜した状況のうちで、現存在であるところのわたしは、わたし自身の本来的な存在可能を選び取り、自らの存亡を賭けて、そこへと向かって跳躍してゆく。わたしが心の内で「生きるべきか、死ぬべきか?」と自問せざるをえないような、こういった「危機」の局面で問題となるのが、ハイデッガーによれば、おのれ自身を開示しながら投企することとしての「良心の呼び声を聞くこと」に他ならないのである。呼び声は、現存在であるわたしに向かって、「行為の深淵のただ中において、あなた自身であれ!」と呼びかける。ただし、ここではいまだ多くのものが絡まり合っているのであって、さらなる解明が必要であることは確かである。私たちは、「呼び声とは何か?」という点を明らかにするために、一歩一歩、じっくりと分析を進めてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[「わたしはいかにして行為すべきか?」という問いが、「良心の呼び声」の分析においては一貫して問われています。具体的な状況、具体的な場面のただ中で自分自身の実存のあり方を選び取ってゆく人間存在について、その構造とドラマとを、哲学の言葉を用いてなしうる限り明晰に描き出してゆくというのが、『存在と時間』第二篇第二章の課題であると見ることもできそうです。最終的に「決意性」の契機へとたどり着くことになるこの箇所は、本の中でも最も示唆に富んだ部分の一つなのではないかと思うので、議論を丁寧にたどり直すことのできるよう、力を尽くしてみたいと思います。]