イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「事象そのものへ!」:『存在と時間』のテーゼ「『それ』が呼ぶ」の分析を通して、哲学することへの衝動の本質を見定める

 
 良心の呼び声の性格をより根源的な仕方で捉えるために、私たちは、ハイデッガーの「『それ』が呼ぶ」という定式に着目してみることにしたい。
 
 
 「呼び声はそれどころか、私たち自身によって計画されるものではまったくない。準備されるものでも、随意に遂行されるものでもまったくない。『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。」(『存在と時間』第57節より)
 
 
 まずは、文脈を確認しておくことにしよう。私たちの生においては、あたかも日常性を突き破るようにして、呼び声の経験とでも言うべきものが降りかかってくることがある。すなわち、「あんなことを言うべきでは/するべきではなかった……」とか、「誰から言われているわけでもないけれど、わたしには『あのこと』ができるし、するべきなのではないか?」といった感覚は、それが実際に言葉にして表現されるかどうかは別にするとしても、時折、私たち自身の現存在を襲ってこずにはいないのであって、ハイデッガーが「良心の呼び声」という概念で射当てようとするのは、こうした「内なる示し」あるいは「声なき声」の経験に他ならない。
 
 
 注目すべきは、こうした呼び声は、呼ばれる私たち自身の意志に反してすら呼ぶことがあるという一事実である。私たちはたいていの場合、「この状況において、いかに振る舞うべきか?」といったように、事態の収拾の方に関心が向いているので、「呼び声が呼ぶ」という事実そのものの方には、必然的に目が向かなくなる傾向にある。しかし、改めて考えてみるならば、「自分自身の意図を超えてまで『〜すべきではなかった』『〜すべきなのではないか』といった感覚に襲われる」というのは、非常に注目すべき事実なのではないだろうか。
 
 
 こうしてみると、「『それ』が呼ぶ」というハイデッガーの定式は、私たちが普段通り過ぎてしまっている特異な生の事実に着目し、それを言い当てるためには極めて的確な表現であることが次第に分かってくる。「『それ』が呼ぶ」は、私たちの生において起こっている出来事の独特さに改めて目を向け、その意味と重要性とを根底から捉え直す上で、大きな手がかりとなる言葉であると言えるのではないだろうか。
 
 
 
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 以上の考察から引き出しうること、それは、「哲学の営みとはある意味で、生それ自身の姿を覆い隠してしまおうとする傾向に抗うようにして、生きることの意味を言葉で掴み取ろうとする企てに他ならない」という実存論的事実なのではないかと思われる。
 
 
 生きることは、絶えず自分自身を覆い隠してしまおうとする途上にある。意味は掴み損なわれ、本題はかわされ続けている。「内なる呼び声」の経験とはおそらく、そのようなただ中にあって、「いかに生きるべきか?」という剥き出しの問いが意志に反して鳴り響いてくる、稀にして貴重な経験に他ならないのである。ただし、人間存在はこの呼び声をも聞き落としてしまう傾向にさらされているのであってみれば、実存論的分析の目指すべきところは、この声なき声を「呼び声」として哲学の言葉へともたらしつつ、それを本来的な仕方で聞くための条件を見定めることに他ならないということになるのではないだろうか。考えるとは、「事象そのもの」へと至ろうとする不断の企てである。「事象そのもの」は絶えず見失われようとしているのであってみれば、かの「事象そのものへ! Zu den Sachen selbst!」こそは、あらゆる哲学の探求を突き動かすところの永遠の標語に他ならないと言うこともできるのではないだろうか。
 
 
 呼び声の経験とは、日常の自明性が突き崩されるような経験であることを念頭に置きつつ考えてみるならば、哲学することへの衝動とはある意味で、生きることそのものの臨界点へと近づいてゆこうとする不断の衝動に他ならないと言うこともできそうである。存在と時間』が「良心の呼び声」に関して提出しているテーゼ「『それ』が呼ぶ」は、2022年の現在を生きている私たちに対しても、「ここには、思考すべき何物かがある」と依然として示唆し続けているのではないだろうか。私たちは、呼び声の分析から導かれる帰結を取り出す作業を、さらに先へと進めてゆくこととしたい。
 
 
 
 
[今回の記事では、現象学の標語「事象そのものへ!」の射程を、「良心の呼び声」の分析に関して掘り下げることを試みました。フッサールによって提唱されたこの標語は、最初に聞くときにはおそらく、「当たり前すぎるのでは……?」と思うか、そもそも何も思わずにスルーするかのどちらかなのではないかと思います(筆者はそうでした)。しかし、あえて言われるからにはやはりそれだけの必然性はあるわけであって、「確かに、『事象そのものへ!』と言いたくなる気持ちがわかる……!」と感じるようになってきたら、フッサールハイデッガーが抱いていた生の感覚から、あるいは、「厳密な学としての哲学」を求める衝動から遠くない所にまで来ていると言えるかもしれません。筆者もこの一ヶ月は心身両面で少し大変でしたが、「存在の超絶」の哲学の構築を目指しつつ、先人たちが体験していた思索の核心を関わってくださる方々と分かち合えるよう、引き続き励んでみます。今回、ブログやTwitterを通して関わりを持ってくださる方々の存在のありがたさを、身にしみて感じました。もしよかったら、これからもよろしくお願いいたします。読んでくださった方の一週間が、平和のうちに過ごされんことを……!]