イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

祈るという行為の実存論的な意味について:「良心の呼び声」との関連で考える

 
 「良心の呼び声」は現存在であるわたしの思惑を超えるところから、わたしに降りかかってくる。私たちはこの事態についてすでに考察を重ねてきたが、この論点については『存在と時間』の読み幅を拡げるという意味でも、一つの問題提起を行っておくこととしたい。
 
 
 問題提起:
 「良心の呼び声に耳を傾けるという行為は、祈るという行為ときわめて近いところでなされるものなのであって、極限点においては、二つの行為は一致すると言えるのではないか?」
 
 
 1927年に出版された『存在と時間』において論じられている「呼び声」の議論が、私たちの日常からは少し遠いところで論じられているような印象があることは否定できない。しかし、良心の現象は確かに、私たちの生のさまざまな場面において生起している。「〜すべきではないか?」「〜すべきではないのではないか?」という「内なる示し」の経験は、特に私たちが自分自身の進むべき道が問題となっているような時には、きわめてリアルなものとして、私たちの元に到来せずにはおかないのである。
 
 
 ハイデッガーの『存在と時間』はこの事態のことを、「呼び声が呼ぶ」と表現している。ところで、祈るとは、人間が人間を超える存在に向かって心のうちで語りかけるのと同時に、その沈黙の声に耳を傾けようとする行為でもある。自分自身の心の中に響いてくる「内なる呼び声」に耳を澄まそうとする経験が、祈りという行為を祈りとして成り立たせているものに他ならないのである。存在と時間』の「良心の呼び声」に関する議論が日常からは少し遠いようにも見える領域で展開されているような印象を与えることは、偶然ではない。「良心の呼び声を聞く」とはもともと、人間存在を人間存在として、その実存の奥底において成り立たしめるような行為として、祈りにきわめて近いところでなされるものであると言えるのではないだろうか。
 
 
 
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 ハイデッガーと同じ20世紀という時代を生きた女性であるマザー・テレサは、次のように言っている。
 
 
 「もし、本当に祈りたいなら、まず聞くことを学ばなければなりません。心の静けさの中で神は語りかけられるのです。[…]心が深く神に満たされると、自然とことばや思いがわき出てくるのです。」
 
 
 深い沈黙のうちで「呼び声」に耳を傾ける時、人間はその存在の奥底から変容を蒙り、「新しい人間」のかたちへと日々作り変えられてゆく。マザー・テレサが語っているのは、人間が真にその人自身となり、語るべき言葉を語りだすような瞬間をもたらす行為に他ならない。彼女によれば、その行為こそが祈りなのであり、人の心に語りかけてくる「内なる呼び声」に耳を傾け続けることなのである。私たちはすでにソクラテスのダイモーンの例に即して、「呼び声」の問題圏の広がりを見た。ハイデッガーの「良心の呼び声」の議論は、現代を生きる人間から失われつつある経験に深い連関を有するものであると言えるのではないだろうか。
 
 
 2022年の現在において、哲学は、祈るという行為の意味について考えることができるだろうか。祈りつつ生きるような実存のあり方を思索することは、なおも可能なのか。「良心の呼び声」、すなわち、人間存在の心に響いてくる「内なる呼び声」に耳を傾けることをめぐる『存在と時間』の議論は、こうした問いかけをも同時に惹起せずにはおかないもののように思われるのである。以上のことを指摘した上で、私たちとしては「内なる呼び声を聞く」という行為が人間にもたらす変容について、もう少し掘り下げて考えてみることにしたい。
 
 
 
 
[「祈る」という行為は現代の哲学においてはあまり論じられることがないかもしれませんが、今回は「良心の呼び声」との関連において論じました。考える上での何らかのきっかけになれるとしたら、これ以上の喜びはありません。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]