イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

新しい国づくりへの提言    ーヘーゲル的憲法観が私たちの意識を変える

 
そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。
 
 「個人を国から守るものとしての憲法」。立憲主義という考え方は、近代という時代が私たちに手渡してくれた、貴重な財産です。けれども、この考え方を支えているマグナ・カルタ憲法観にはひとつの理論的な死角があるのではないかと、僕は考えています。一言でいえば、この憲法観だけに頼ってしまった場合には、「私たち一人一人が国を作ってゆく」というモメントが見えにいものになってしまう恐れがあるのではないでしょうか。
 
 
 日本国憲法によるならば、私たちの国の主権者は、この国のなかで生活している私たちの一人一人です。国民主権という考え方については、中学校の社会科の授業でも学ぶことになるので、誰でも聞いたことがあります。けれども、このことを実感をともなってきちんと納得するのは、とても難しい。17世紀に生きたスピノザというオランダの哲学者は、耳で聞いたことと、概念によってきちんと理解したこととをはっきりと区別するように私たちに教えていますが、国民主権というこのイデーについては、前者のままにとどまってしまう危険がとくに大きいように思います。
 
 
 たとえば、東京にいるとき、地下鉄の霞ヶ関駅から降りたって官庁街を見たり、国会議事堂前駅から降りて、TVでもおなじみのあの建物を眺めたりしていると、おそらくそこで働いている方たちは別としても、すべてのものがなんだか自分たちからは少し遠いものに感じられてしまうという印象を否定することはできません。人通りもあまりなく、静まりかえっているそのエリアは、池袋や渋谷といった、東京のほかの大きな街とは明らかに雰囲気がちがっています。
 
 
 でも、日本国憲法にもしも話すための口があるとしたら、そういう時にはきっと、私たちにむかって次のように言うことでしょう。
 
 
 「なるほど。でも、たとえそういう風に感じるとしても、あれらの建物はすべて、あなたたちが作ったものでもあるのだよ。あの建物が立派だといえるのは、それが一部の人たちだけではなく、あなたたち一人一人の意志が集められてゆく場所だからだし、あそこで働いている人たちが大きな権限をもっているのは、あの人たちがあなたたちの代表として働いているからだ。そして、そこから生まれてくるよいもののすべては、特別な人たちだけではなくて、あなたたち一人一人のもとに届けられることになる。そこでは、誰ひとりとして無視される人がいてはならないのだ。」
 
 
 「こうしたことがすべて成りたっている国こそがよい国だというのは、人間が作るあらゆる国について言えることだ。そんなことは夢物語だという人も、たしかにいるかもしれない。実情のことは、わたしにはよくわからない。けれども、わたしの中にそのように書いてあるということもまた、あなたたちはいつでも忘れてはならないのだ。わたしは、この国の中で最も大切な法律だ。あなたたちはそう遠くない昔に、これからはわたしの言っていることに基づいて国を作ってゆくと決めたのだからね。」
 ヘーゲル的憲法観
 個人が国から守られることは、とても大切です。けれども、個人がちゃんと国から守られるような国を作ることこそが、そのことを支えてくれるのでもある。基本的人権という考え方は、今ではいくぶんか当たり前なものになってしまったきらいがありますが、この権利が守られる国を作り、それを保ってゆくというのは、計り知れないくらいに立派なことだと思います。たしかに、20世紀の思想は、人類の歴史が進歩するというイデーにたいして、大きな疑問をさしはさみました。けれども、少なくとも「すべての個人にたいして、侵すことのできない永久の権利を与えることのできる国を作るのだ」という考え方が生まれ、根づいていったという意味では、私たちはやはり、偉大な時代を生きているといえるのではないでしょうか。
 
 
  憲法は、個人を守るという以上に、国を作る。こうした憲法観を、マグナ・カルタ憲法観にたいして、ヘーゲル憲法観と呼ぶことにしましょう。この呼び名は、19世紀のはじめに活躍したドイツのヘーゲルという哲学者に由来していますが、彼は、考えることの価値を認めながらも国家と自由を結びつけることができた、近代においてはきわめて数少ない人びとのうちの一人でした。ヘーゲル憲法観は、マグナ・カルタ憲法観をも自分の中に包摂しながら、私たちの視野をより広いところへ解き放ってくれるはずです。それは、憲法がもつ創造的な側面へと私たちの目を開いてくれる。じっさい、20世紀の終わりごろからの歴史の流れを見ていると、どうもこれからの政治哲学の役目のひとつは、「主権は私たちにある」という、古くてつねに新しいこのイデーを、もう一度正面から取りあげなおすことにあるのではないだろうかと思えてくるのです。
 
 
  私たちは憲法の歴史をたどるなかで、思想の営みがいかにして今のこの世界を形づくるにいたったのかを知りました。イデーこそが、現実を作ります。たしかに、ここで提示してみた新しい国づくりへの提言は、きわめてささやかなものにも見えます。「憲法を別なふうに捉えてみよう」というだけで、いったい何が変わるというのだろう。けれども、ものの見方が変わってくれば、現状の捉え方、未来への展望もガラリと変わってくるというのも確かです。憲法をめぐる私たちの探求もそろそろ佳境に近づいていますが、今のこの国の状況を確認しつつ、新しい国づくりの方向をこれから思い描いてみることにしましょう。
 
 
 (つづく)
 
 
 
 (Photo from Tumblr)