信仰者とファム・ファタル
前回までで、私たちは恋についての考察をひととおり終えました。筆者としては、この後の人生でもう恋に落ちることはないだろうと思っているので、とりあえず、恋というイデーについては、この人生ではこれくらいでいいかなという気がしています。 「生きるこ…
「完璧なあなた」をめぐる体験を通して若者の心のうちに空いた穴は、何をもってしても埋めることができそうにないほどに大きなものです。 たしかに、哲学や芸術、科学といった、永遠の真理にかかわる仕事、または、命をかけて追いもとめるに値する、他のさま…
失恋の苦しみは、時に耐えられないと思われるほどに大きなものになりえます。しかし、この苦しみの体験が、信仰へのまたとない準備という側面をかんがみるとき、信仰者は、人生というものへの驚異の念にとらえられずにはいられません。 「完璧なあなた」、あ…
失恋した若者が、世界も自己もともに崩れ去ってゆく全面的な破壊のプロセスをその身に引き受けざるをえないのは、かれの内にある「完璧なあなた」の理念が、あらゆる存在者を断罪せずにはいないからです。 この段階までくると、もはや事態はほぼ完全に脱性化…
若者が「完璧なあなた」の理念に触れたのち、失恋の苦しみをこうむっている時点において、かれは気づかないうちに、すでに神の御手のうちに入りこんでいます。 もちろん、かれは自分の苦しみが、現実のうちにいるあの彼女を失ったことからくると考えているこ…
「恋の体験は、恋される対象とはほとんど何の関係もない。」このことは、うまくいった恋愛なるものについて考えてみるならば、いっそう理解しやすくなります。 恋愛がうまくゆき、恋の相手と長い付き合いをはじめた場合にいわゆる「最初のときめき」が失われ…
さて、恋の話題に戻りましょう。この体験における最大の逆説、それは、若者が憧れる「完璧なあなた」のイメージは、ある意味で、かれの愛しい彼女とはなんの関係もないということです。 かれは確かに、彼女のさまざまな細部をかぎりなく大切にしておこうとし…
ところで、実在の探求というテーマについては、今回の話題とも関連しますが、ひとつつけくわえておくべきことがあります。 恋する若者は叫びます。「真に実在するもの、それは〈彼女〉である!」この叫びがある意味で厄介なのは、ここには真実の一片が含まれ…
もしも、ひとを天上に向かわせるものを霊と呼び、地上に引きとめるものを肉と呼ぶならば、恋の体験においては、霊と肉とが分かちがたいしかたで混じりあっているといえます。 恋の体験における愛しい彼女は、その存在論的なステータスにかんして、二つの極を…
悪魔なるものの由来を考えるならば、恋愛の秘密にもすぐに納得がゆきます。信仰の言葉によるならば、悪魔とは堕天使、つまり、天から追放された天使のなれの果てであるというのです。 恋する若者にとって、愛しい彼女は、堕天使とまったく同じ存在論的ステー…
失恋のさなかにある若者が、それこそ身を切り裂かんともいわんばかりの苦しみに悩まされつづけるのは、かれに「完璧なあなた」のイメージがいつまでもつきまとわずにはいないからです。 悪魔的な彼女自身は、あくまでも人間にすぎません。ルー・アンドレアス…
悪魔的な彼女にとっては、告白する前の若者はよい獲物でしたが、告白した後にはたんなる食べかすくらいの存在にすぎません。 人道上、まことに許しがたいことですが、かれとしては、もうこの事実を認めてしまったほうがずっと楽になれることは間違いありませ…
この世においては、至福を長く味わうことは許されていません。恋の終わりは、若者にとってはあまりにも早く訪れることになります。 その理由は、恋したことのある人ならば誰でも知っているように、恋においては、「先に恋に落ちてしまった方が負け」というル…
恋の話に戻りましょう。愛しい彼女にすべてを捧げた若者には、ほんの少しのあいだだけ、天国にもひとしい至福の時間を過ごすことが許されます。 この時期のことは後からふり返ると、まさしく夢のようにしか思われません。それというのも、恋とは、1%の至福…
「ファム・ファタルではなく、賢者に憧れればよかったのに。」しかし、考えてみるならば、青春に向かって大手を切って進んで行く若者にこのことを期待するのは、いささか無理があるというものかもしれません。 どうも、私たちの人生は、自分で失敗してみなけ…
もしも、若者がソクラテスのような人に恋をするならば、かれにはまだ救いの可能性が残されています。ソクラテスのような賢人は、若者を真理の探求へと駆り立てずにはおかないからです。 賢者は、かれに次のように言うことでしょう。「君は、わたしのうちに君…
若者がひとたび愛しい彼女にぞっこんになってしまうならば、もう、ほかの誰の言葉もかれの耳には響きません。 それというのも、かれの無意識の心は、彼女への偶像崇拝の熱情によって支配されているからです。黒い髪の悪魔は、すでにかれの主権を完全に掌握し…
振り込め詐欺なる犯罪については、近年になって、いたるところでその危険が喧伝されることになりました。その一方で、ファム・ファタルによって行われる魂の搾取については、あまり取り上げられることがありません。 若い男性たちにとって、悪魔的な女性の存…
それにしても、偶像とか悪魔という言葉を不用意に用いてしまうと、当の女性たちにたいしてあまりに礼を失することになるのではないかという恐れがあります。 したがって、ここからはさらに対象を限定してゆくことにしましょう。すなわち、「今回の探求では、…
近代という時代は「愛しい彼女」という偶像を崇拝するにいたってしまいましたが、この時代が決定的に終わりを迎えたことがいよいよ明らかになりつつある今、もしかすると、偶像のたそがれもそう遠くないのかもしれません。 しかしながら、およそ偶像崇拝なる…
恋する若者にとっては、ただ愛するあの人だけが、すべてのものごとをの鍵を握っているように感じられます。 かれの中で起こる世界消失のプロセスを、鬼気迫る臨場感とともに描いた作品としては、やはり、ゲーテの不朽の名作『若きウェルテルの悩み』を忘れる…
まず最初に、今回の探求の方針について、一点だけ確認しておくことにします。それは、「今回の探求では、うまくいった恋については取り扱わない」というものです。 わたしと彼女とが恋に落ちて、長い時間をかけて二人の関係を築いてゆくとします。わたしと彼…
四月からこれまで、死、形而上学、倫理と、私たちは探求を行ってきました。引きつづき神の問いを追いもとめてゆくことにしますが、今回は少しトリッキーな角度から問題にアプローチしてみたいと思います。それは一言でいうと、恋愛の体験を考えることによっ…