イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

キング牧師は「呼び声」を聞いた:「決意性」の分析に向けて(付:2023年2月27日の追記)

「負い目ある存在」の「重荷」としての性格について議論を重ねてきたことで、私たちはようやく「決意性」の概念について論じる準備が整いつつある。もう一つだけ事例を取り上げた後に、ハイデッガーの『存在と時間』に戻ることとしたい。今回扱う事例は1956…

輝きは、苦しむことを通して生まれ出てくる:「不安」と「幸福」の関係をめぐって考える

前回に引き続き、「存在することの重み=舞台上の緊張の重苦しさ」に関するキルケゴールの言葉を題材にしつつ、考察を掘り下げてみることにしたい。同時代の女優であったJ・L・ペーツゲスが体現している「軽やかさ」について、彼は「危機」の中で次のように…

「女優の軽やかさは、どこから来るのか?」:「危機」におけるキルケゴールの言葉から考える

「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるにあたっては、「実存」の語を現在用いられているような意味ではじめて使用した先人の言葉を参照しておくこととしたい。セーレン・キルケゴールが1848年に発表した「危機」(正式題名「危機…

カルナナンダのように、走りきれたら:1964年、東京オリンピックにおける出来事を通して考える

今回は、「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるために、一つのエピソードを取り上げてみることにしたい。それは今から60年ほど前、1964年に起こった出来事である。 1964年の東京オリンピックにおける10000メートル走で、後々まで…

「とげ」と共に生きるということ:『コリント人への第二の手紙』を通して考える

私たちは「生きることの重荷」、あるいは「被投性の重み」について、どのように考えたらよいのだろうか。この問題を「良心の呼び声」との関連において掘り下げるために、今回の記事では、『コリント人への第二の手紙』第12章におけるパウロの言葉を参考にし…

「自分自身を愛することの難しさ」:〈使命〉=「最も固有な存在可能」の問題圏について考えるために

私たちはこれまで「重荷」という表現を用いてきたが、この言葉はハイデッガー自身が『存在と時間』において用いてもいる。「負い目ある存在」について語られている、次の箇所を引用してみる。 「存在していながら、現存在は被投的なものであり、じぶん自身に…

叱責する良心、あるいは、「重荷」から解放されるという可能性:アウグスティヌス『告白』の場面を通して考える

ハイデッガーの言う「負い目ある存在」を直観的に理解するために、今回は一つの具体的なケースを見てみることにしたい。アウグスティヌスの『告白』第八巻第七章における次のような場面を元に考えてみることにしよう。 「さて、わたしはこの世の希望を捨てて…

生きることの重荷と、「幸福」なるものの探求:「負い目ある存在」の分析へ

今回の記事から、良心の現象をめぐる分析は新しい領域へと踏み込んでゆくことになる。まずは、次の問いを立てるところから探求を開始してみることにしたい。 問い: 「良心の呼び声」は私たち人間存在に対して、一体何を告げ、理解させるのだろうか? 私たち…

「外に出てゆかず、きみ自身のうちに帰れ」:「良心の呼び声」に関する、これまでの分析の総括

今回の記事では、「良心の呼び声」の性格を見定めるというこれまでの作業を総括する意味で、「良心とは気づかいの呼び声である」という『存在と時間』第57節のテーゼを検討しておくこととしたい。 「現存在が呼ぶ者であり、同時に呼ばれる者であるとする命題…

「誰にでもできそうで、誰にもできないことを」:マザー・テレサが、ロンドンの通りすがりの男性にしたこと

「良心の呼び声」を聞くことは人間に、どのような変容をもたらすのだろうか。この点について考えてみるために、前回に引き続いて、マザー・テレサの言葉に耳を傾けてみることとしたい。 「私はあの時のことを、絶対に忘れることはないでしょう。ある日ロンド…

祈るという行為の実存論的な意味について:「良心の呼び声」との関連で考える

「良心の呼び声」は現存在であるわたしの思惑を超えるところから、わたしに降りかかってくる。私たちはこの事態についてすでに考察を重ねてきたが、この論点については『存在と時間』の読み幅を拡げるという意味でも、一つの問題提起を行っておくこととした…

「『呼び声』を聞いてしまったら、元に戻ることはできない」:生の本質について考える

呼び声の性格を見定める作業から導かれてくる帰結を引き出すという試みも、そろそろ大詰めを迎えつつある。前回に見た「『それ』が呼ぶ」に続く箇所を引用しつつ、考えてみることにしよう。 「『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。…

「事象そのものへ!」:『存在と時間』のテーゼ「『それ』が呼ぶ」の分析を通して、哲学することへの衝動の本質を見定める

良心の呼び声の性格をより根源的な仕方で捉えるために、私たちは、ハイデッガーの「『それ』が呼ぶ」という定式に着目してみることにしたい。 「呼び声はそれどころか、私たち自身によって計画されるものではまったくない。準備されるものでも、随意に遂行さ…

「わたし自身が、わたしにとって謎となる経験」:実存論的分析のテーゼ「呼び声は通り過ぎる」を検討する

良心の呼び声についての考察を深めるために、「呼び声は通り過ぎる」とハイデッガーが語っている事態について、掘り下げて考えてみることにしたい。 「現存在は、他者たちとじぶん自身にとって現存在として世間的には理解されている。そのような現存在が、こ…

「人間存在は果たして、何に耳を傾けるべきか?」:『存在と時間』が提起する根本問題について

今回は少し立ち止まって、次の問題についてじっくりと考えてみることにしたい。 問題提起: 「聞く」ことをめぐる『存在と時間』の議論は2022年の現在を生きている私たちに対して、私たち自身の生のあり方に関わる非常に重要な問いを投げかけていると言える…

日常の風景が、「問いかけ」の場面へと変わるとき:『存在と時間』第55節が描き出す情景

「呼び声」の分析を進めてゆくために、ハイデッガーの以下の言葉を取り上げつつ、「聞く」ことの可能性について考えてみることとしたい。 「〈ひと〉の公共性やその空談へとみずからを喪失しながら、現存在は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことにあっ…

「彼方から彼方へと呼び声がする」:呼び声に耳を澄ますという、実存論的分析の課題について

「良心の呼び声」の現象に本格的に取り組んでゆくにあたって、まずは、この分析が向かって行く方向を前もって見定めておくことにしたい。 論点: 「良心の呼び声」に関する実存論的分析は、「内なる呼び声に耳を澄ますこと」とでも言うべき態度を通して遂行…

「ダイモーンの呼び声」:ソクラテスのケースから出発して、私たちの日常的な経験について考える

「呼び声としての良心」という主題について考えるにあたっては、私たちはやはり、まずはよく知られた先人の例から出発してみるのがよいだろう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスは次のように語っている。少し長くなってしまうが、引用し…

「深淵のただ中において、あなた自身であれ!」:議論の出発点「良心は開示する」

ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、良心をめぐる分析に入ってゆくこととしたい。 「良心の分析は、その出発点として、良心という現象にかんする中立的な所見を採用する。すなわち、良心はなんらかの様式で、だれかになにごとかを理解するように…

「本来的なわたし」なるものが、果たして本当に存在するのか?:「良心の呼び声」の分析へ

『存在と時間』読解は、今回の記事から「良心の呼び声」の分析に入ることとしたい。これまでの議論に対する次のような疑問を提起してみることを通して、本格的な分析に入ってゆく上での導入を試みてみることにしよう。 これまでの『存在と時間』の議論に対す…

「今日も明日も、やり続けてみよう」:デカルト哲学における「高邁」の情念について

自己を掴み取るとはいかなることであるのかを探るために、もう一人、近代の哲学者の言葉に耳を傾けておくこととしたい。デカルトは『省察』の第三部の冒頭において、「重視」や「軽視」の情念について語り始めたのち、次のように言っている。 「そして、知恵…

「それは世にも美しい、驚嘆すべき像であった……。」:『饗宴』において、アルキビアデスはソクラテスという人物のうちに、何を見たのか

自己であること、一人の人間が、本当の意味で「わたし自身」と言えるような一貫性を持つとは、どのようなことなのだろうか。この点を探るために、今回の記事では、プラトン『饗宴』の最終部分に位置する、アルキビアデスによるソクラテス賛美の箇所について…

選択と決断:現存在であるところの人間が、「わたしは、わたし自身の生を生きている」と言うことのできる根拠とは何か

さて、私たちは読解を進めてゆくにあたって、なぜハイデッガーが『存在と時間』において「良心の呼び声」なるテーマについて論じたのか、その必然性を理解すべく試みてみることとしたい。その上で押さえておく必要があるのは、以下のような論点なのではない…

「存在論の歴史の破壊」:『存在と時間』の出現と共に、人々は、時空感覚が歪むのを感じた

1927年に出版された『存在と時間』が当時の人々にもたらした衝撃の内実とは一体、どのようなものだったのだろうか。この点についての理解を深めるために、今回の記事では、以下の論点について掘り下げておくこととしたい。 論点: 『存在と時間』の序論部分…

人はいかにして本来のおのれになるか:1927年、マルティン・ハイデッガーがくぐり抜けた「大勝負」について

「自己」の問題にアプローチするための助走の意味も兼ねて、1927年の『存在と時間』出版が著者のハイデッガー自身にとってどのような意味を持つ出来事であったかという点について、改めて考えておくこととしたい。後年のハンナ・アーレントはこの本が収めた…

「事象へ現に到達している男」、あるいは、「発狂したアリストテレス」:思索するという行為は、いかなることを意味するか

『存在と時間』出版以前のハイデッガーをめぐる状況について、もう少し掘り下げておくことにしたい。まずは、引き続きアーレントの回想の言葉に耳を傾けつつ、当時の状況の方へと遡ってみることにしよう。 「第一次世界大戦後の当時、ドイツの大学には叛乱こ…

「哲学の隠れた王」:ハンナ・アーレントの証言を通して、『存在と時間』出版以前のハイデッガーの状況を探る

「良心の呼び声」の分析へと向かう準備作業として、『存在と時間』が出版される1927年以前の状況に遡った上で、この本が哲学の歴史において持つ意味について、改めて考えてみることにしたい。 論点: 20世紀の哲学の歴史の流れを決定づけた書物である『存在…

「精神の革命」は決して、終わることがない:『ソクラテスの弁明』について、論じ終えるにあたって

死刑の判決が下されたのち、『弁明』のソクラテスは、これからアテナイで起こるであろう出来事について、一つの「予言」をすると言い始める。少し長くなってしまうが、その箇所を引用しつつ、検討してみることとしたい。 「諸君よ、諸君はわたしの死を決定し…

ソクラテスの「最も固有な存在可能」は、同胞たちに対しても差し向けられている:『弁明』における、「馬とあぶ」の喩えを通して考える

ソクラテスの言葉を通して、哲学する人間の実存のあり方について、もう少し掘り下げてみることにしよう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、彼はこう言っている。 「どうか騒がないでいてください、アテーナイ人諸君。どうぞ、わたしが諸君にお願いし…

「精神の革命」は「気づかいの向け変え」として企てられる:『ソクラテスの弁明』における問題の核心

私たちは『存在と時間』における「死への先駆」につての議論を終えたが、この主題に関連して、一人の思索者の生きざまに関する省察を深めておくこととしたい。まずは、次の言葉を取り上げるところから始めてみることにしよう。 「世にもすぐれた人よ、君はア…