イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2020-04-01から1ヶ月間の記事一覧

哲学の根本問題

論点: 善き哲学の師は、存在という語に対する研ぎ澄まされた感覚を身につけていなければならないものと思われる。 哲学をやっていない人であれば、「存在する」とか「ある」とかいった言葉を聞いたとしても、特に気にも留めないであろう。しかし、哲学者で…

師に力能は必要か

問い: 善き師であるためには、力能も必要なのか? 筆者自身の哲学を題材にとって、この問いについて考えてみることにしたい。 筆者の哲学においては、存在と力能という概念対が非常に重要な位置を占めている。この概念対を通して言いたいことは超簡単に突き…

潜勢状態としての完全無双

論点: 人間は、目標を設定する時には非常に気をつけなければならない。 これは、何気にめちゃくちゃ重要なことなのではないかと思われる。 たとえばである。ある人が、「同期の仲間たちの間で、一番の哲学者になる」と目標を立てたとする。その人の目標が達…

善き師をめぐる探求を始めるにあたって

今回探求したいのは完全に、前回の探求からの引き続きの主題である。 今回の問い: 善き哲学の師であるために、必要なことは何か? 「変わりばえしないじゃん」と、ツッコまれる向きもあるかもしれぬ。あるいは、ツッコミすら皆無の完全沈黙空間でただ延々と…

死についての探求の終わりに

そろそろ、今回の探求に一区切りをつけておくことにしたい。 結論: 善き師として生きることが、哲学者が死に対して行いうる最大の抵抗である。 途中から、死については全く語られなくなってしまったが、これはある意味では事柄の本質から出てきたことであっ…

「海辺の街を歩くように……。」

論点(再提示): 弟子によって越えられることが、恐らくは師の最後の仕事である。 師は、自分が教えてきたことを弟子が自分のものにするまでは、弟子が勝手なことをするのを許さないであろう。しかし、師が言葉の真の意味における人間であるならば、弟子を…

『差異と反復』をめぐって

論点: 弟子によって越えられることが、恐らくは師の最後の仕事である。 哲学の師はすべからく、自分自身が築き上げた哲学は、本質的には、自分一代限りのものであると覚悟しておかなければなるまい。 未来には、予想もしていなかった何かがやって来てしまう…

師も弟子も、人ではなく真理に従う

問い: 弟子は、師に対して絶対の忠誠を守る義務があるのだろうか。 この問いに対しては、心苦しいのではあるが、否と答えねばなるまい。師を敬わねばならないというのは基本中の基本であり、自分の判断よりも師の言葉を優先しなければならないのは確かだと…

継承の哲学史:ハイデッガーの場合

論点: 弟子は、師が予想することのなかったやり方で師の教えを引き継いでゆく。 これは、教えの神秘とでも呼びうる領域に属する事柄である。 弟子は途中まで、あくまでも師の教えを忠実に守ってゆこうとするのだが、ある決定的な地点において、師の教えより…

師は語り続けている

論点: 障害は無数にあるけれども、それでも真理の言葉は、師から弟子へと受け継がれてゆく。 このことは、哲学の歴史自体が証明している。哲学史とは、真理の言葉の継承でなくて一体何であろうか。教えが時代から時代へと、また、時には時代を超えて受け継…

弟子が師のもとを去ることもある

論点: 師と弟子とは、最終的には異なる二つの人格であらざるをえない。 苦々しい事実ではあるが、認めねばならない。師が弟子に対してなしうることには、ある越えがたい限界があると言わざるをえないように思われるのである。 弟子が、ダークサイド(すなわ…

ソフィストの誘惑

論点: 学びが成就するかどうかは、最終的には弟子の選択に委ねるほかない。 師は弟子の実存のあらゆる要素を気づかうわけだが、師にできることにも限界はある。師は、その最後の局面においては、弟子の心に善なるものが宿っていることを信頼するほかないの…

歯医者の例、あるいは、師の引き受ける労苦について

論点: 師は、弟子が望もうと望むまいと真理を伝えなければならないという、困難な務めを引き受けなければならない。 師は本当に「真理を知っている」のか、事によると、師が間違っている場合もあるのではないかというのは、それはそれで大きな問題ではある…

プロティノスと「真の人間」

これまではどちらかと言うと弟子の立場から考えていたが、ここからは、師の立場から師弟関係について考えてみたいのである。 論点: 師は、弟子の人間性について熟知しているのでなければならない。 真理の伝達というのはおそらく、全人格的な営みである。古…

師は、弟子を善へと導く

論点: 師は、弟子の人生を善へと導く。 弟子としての、筆者自身の体験から考えてみる。筆者も他の哲学徒たちと同じく、哲学のマスターたちの言葉に耳を傾けることから、多大な恩恵を受け続けてきた(はず)である。 いや、ほぼ毎日のように「われは罪人なり…