イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

キング牧師は「呼び声」を聞いた:「決意性」の分析に向けて

 
 「負い目ある存在」の「重荷」としての性格について議論を重ねてきたことで、私たちはようやく「決意性」の概念について論じる準備が整いつつある。もう一つだけ事例を取り上げた後に、ハイデッガーの『存在と時間』に戻ることとしたい。今回扱う事例は1956年1月27日の夜、アメリカのモンゴメリーで祈っていた一人の男性に関するものである。
 
 
 「そこで私はコーヒーカップの上にうつぶせになった。私はそのことを決して忘れない。私は祈りに祈った。[…]主よ、私は告白しなければなりません。私は今弱いのです。くじけそうです。勇気を失いつつあります。
 
 
 祈っている男性は公民権運動の指導者として知られる、マーティン=L=キング牧師その人に他ならない。上の言葉に見られるように、その日の夜のキング牧師は、非常な弱気に取り憑かれていた。
 
 
 それというのも、彼がリーダーシップを執っていた黒人の抗議運動は、反対勢力からの妨害によって、苦境としか言いようのない状況に置かれていたからである。そして、彼の家の電話には、「もし三日のうちにお前がこの町から出ていかなかったら、お前の頭をぶち抜き、お前の家を爆破するぞ」という脅迫のメッセージまでもが来ていたのであった。
 
 
 妻や、生まれたばかりの娘やどうなってしまうのか、キングは自分自身や家族の命のことも含めて、あらゆるものが脅かされる実存的状況の「重荷」のうちで、もがき苦しんでいたのである。しかし、後に彼の回想するところによれば、この苦しみのただ中で聞いた「呼び声」が、彼の心のあり方を一変させたのだった。
 
 
 キング本人が後に回想するところの「内なる呼び声 Inner Voice」:
「その瞬間、私は内なる声を聞いたように思った。マーティン=ルーサーよ、義のために立て、公義のために立て、真理のために立て。見よ、私はあなたと共にいる。世の終わりまで共にいる。私は閃光の輝きを見た。雷鳴の轟きを聞いた……。」
 
 
 文字どおり正確にこの言葉そのものを「呼び声」として聞いたのかどうかは必ずしも判然としないが、「コーヒーカップの上の祈り」として知られるこの経験がキング牧師の生き方を変えるような根底的なものであったことだけは、間違いないようである。「内なる呼び声」を聞いたことによって、マーティン=L=キングは再び「使命を果たす人間」、あるいは「戦う人間」としてのおのれ自身を取り戻した。三日後の1月30日に自宅が爆破された(!)時にも、彼は冷静さを失わずに、同胞の黒人たちに報復に出ることなく運動を継続しつつ、「敵を愛するように」訴えたとのことである。
 
 
 
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 この後に「決意性」の契機について論じてゆくためにここで指摘しておきたいのは、キング牧師をめぐるこのエピソードにおいては、「呼び声」を本来的な仕方で聞くことが、そのまま彼が「新しい人間」として自らの務めを果たすことを決意し、そのような人間へと生まれ変わることを意味していたという点に他ならない。
 
 
 キングは、「内なる呼び声」を聞いた後に少しずつ自分の考え方を変えていった、というわけではなかった。むしろ、「『呼び声』を聞く」という経験はまさしく劇的なものだったのであって、自分自身の弱さも「重荷」も苦しみも不安も含めて、全ての悩みが一気に吹き飛ばされるような性質のものであったと言ってよいだろう。ここにおいてはあたかも、「内なる呼び声」を聞くことがそのまま、安らぎと確信とに満たされつつ、「最も固有な存在可能」に向かって自己投企することであるかのように、事態が進行している。「わたしは一人ではない」というのが、その時の彼を包み込んだ平安の核心であった。「呼び声」を聞くという経験は極限においてはこのように、一人の人間を実存のどん底から立ち上がらせ、もう一度命そのものを取り戻させるような射程を備えていると言うことができるのではないか。
 
 
 このことは、これから『存在と時間』のテクストに立ち返ってゆこうとしている私たちにも、この上なく大きな示唆を与えるものであると言うことができそうである。なぜなら、この本における「決意性」の概念はこれから見るように、「『呼び声』を本来的な仕方で理解すること」とひとつながりになったものとして把握する他ないものとして論じられているからだ。人間が、自分自身の抱えている弱さに直面させられるただ中でもう一度立ち上がり、自らの本来的な実存を生きることを可能にするのは、まさしく全生命を賭けて「内なる呼び声」の語ることを聞き取るというただ一点にかかっているのであって、この一点から生まれ出てくる気づかいの本来的なあり方こそが、まさしく「決意性」という実存の様態に他ならないのである。私たちは以上のような見通しを持った上で、『存在と時間』のテクストに戻ってゆくこととしたい。
 
 
 
 
[この記事を書き終えていったん燃え尽きてしまったので、来週はお休みすることにします。この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!
 

追記……しばらくアウグスティヌス『告白』の読解に集中したいので、ブログの更新は休むことにします。クリスチャンプレス紙の連載「断片から見た世界」で、ブログで展開してきた議論をさらに掘り下げてみるつもりです。ブログの今後については、時間をかけて考えてみることにします……!]