2016-05-01から1ヶ月間の記事一覧
「哲学の根源を問いなおす。」このことを行うさいには、真なるものと善なるものの関係をめぐるあの古い問いかけが、ふたたび浮上してくることになるのではないかと思います。 真なるものが善なるものと切り離されるかたちで追いもとめられているかぎり、哲学…
すでにこれまでの探求において、私たちは、一般的な意味における哲学の領域をだいぶ踏み越えてしまっています。そろそろ自分の哲学の立ち位置にたいして、自覚的に考えておく必要があるようです。 さて、次のような疑問には、今のうちに答えておくべきである…
これで、死についての今回の探求は終わりになります。二ヶ月という長い期間がかかってしまいましたが、読んでくださった方は本当にありがとうございました。 心残りなのは、「死ぬことは自分にとっては恐ろしいことではない」というコメントをくださった方が…
「わたしが死から救われるかどうかは、神がわたしを愛しているかどうかにかかっている。」ここにいたって、救いの道について哲学の側から語れることは、その終着点にたどりついたことになります。 あとは、神が存在するかどうか、そして、その神がわたしを愛…
わたしの主権が絶対的な他者である神に委ねられることによって、救いの道はいよいよ大詰めのフェーズに入ってゆきます。 ひょっとすると、主権というよりも自然権といった方が言葉づかいは正確かもしれません。ホッブズが『リヴァイアサン』において論じてい…
「わたしが神に呼びかけるときには、つねにすでに、神のほうから呼びかけられてしまっている。」すでに数回にわたって論じてきたこのモメントを、私たちは絶対的膈時性と呼ぶことにしましょう。 絶対的膈時性という概念は、わたしが乗り越えることのできない…
「心の最深部は生きている神に直接つながっており、神はそこから私たちに、ずっと呼びかけつづけている。」前回の記事では、デカルトとカント、それにフッサールの議論を取りあげましたが、今日は日本の中世を生きた親鸞の思考を取りあげつつ、このテーゼを…
「心の最深部は生きている神に直接つながっており、神はそこからわたしたちにずっと呼びかけつづけている。」救いの道がわたしたちに提示しているのは、このような途方もない可能性にほかなりません。 単なる観念や理念ではない、生きている神が心のうちでわ…
わたしがわたし自身にたいして絶望しきって、生きている神に呼びかけるとき、根本的な転換が起こり、わたしは生まれてはじめて、本当の意味で神に出会うことになります。 これは、ある種の恐れとおののきを伴わずにはいない瞬間です。なぜなら、わたし自身が…
救いの道において見いだされる真のわたしとは、悟りの道における永遠のわたしとは異なり、どこまでも弱い存在です。わたしなるものは、あらゆる弱さに、とりわけ死の次元に避けようもなくさらされています。 神に呼びかける以前のわたしは、自分の内にあるこ…
呼びかけによって無意識の真理があらわになるとき、ある重大な転換が起こることになります。 それは、いまや神を求めることになったわたし自身が、神の存在によって揺さぶられるということです。それまでのわたしには、まさか自分が神のことを呼び求めること…
死を前にしての他なるものへの呼びかけは、最後のところで、人間ではないものに救いを求めることになります。これは、呼びかけを行うわたし自身にとってさえも大きな驚きをもたらさずにはおかない瞬間です。 わたしは、気がつくと神に向かって呼びかけはじめ…
救いの道は、死を前にしたわたしが、救いの可能性を呼び求めるところからはじまります。 概念や直観の次元とはことなり、呼び求め、あるいは呼びかけの次元は、哲学によって扱われることがあまりありません。それはおそらく、この次元が、人間の生の最もプリ…
概念と直観によってたどりつく永遠なるものにおいては、自己性と他者性が混在しています。このものは、わたしを超えているのと同時に、わたしの刻印をいくぶんか帯びているといえる。 「そうではない。わたしとは幻想であり、永遠なるものは、わたしとは何の…
悟りの道による解決をあきらめながら、それでも死とともにわたしが消滅することに耐えられないとするなら、もう一つしか道はありません。それは、わたしではない他者に、死後の救いを求めることです。 この道を、救いの道と呼ぶことにしましょう。この道は、…
悟りの道は、概念と直観により神秘のうちへと入りこんでゆくことで、死を乗り越えようとします。今回は、こうしたアプローチにたいする自分の立場を確定しておくことにします。 悟りの道を歩む探求者がたどりつく、あの永遠なるものについては、僕はその存在…