イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2016-08-01から1ヶ月間の記事一覧

内在的超越と絶対的超越

良心の呼び声という現象には、身近なものでありながらも、どこかこの世を離れているようなところがあります。 そのため、この現象が哲学的分析の対象となることは、あるにしても稀だったと言ってよいでしょう。この点については、プラトンがこの現象にたいし…

良心の呼び声について

「無意識の心の底からの神による呼びかけが、倫理的なものの根源をなしているのではないか。」神による掟というイデーはこうして、倫理的なものの受動的総合というモメントに私たちを導くことになります。 確かに、これが法外な想定であることは間違いありま…

倫理的なものの受動的総合

「呪いはわたしの内にある。」わたしがわたしの自己性の執拗さを認め、自らのうちで働く悪魔的なエゴイズムの根絶不可能性に打ちのめされる時こそ、神による掟という次元が倫理的なものとして立ち現れる瞬間です。 神はいまや、次のようにわたしに言います。…

悪はわたしの内にある

悪魔的なエゴイストのアポリアはある意味で、倫理的なものをめぐる思考につきまとう呪いのようなものです。このアポリアは、すべての根拠を破壊しつくそうと、いつでも私たちを待ち構えているからです。 ここで注意しておきたいことが一つあります。それは、…

カントとレヴィナスへの疑問

先に論じた倫理法則の絶対性というモメントは、いまや神による掟の持つ絶対性として捉え直されることになります。そして、この法則がすべての人間に課されるのは、掟の絶対性のうちに根拠を持つということになる。 普遍性が絶対性によって基礎づけられるとい…

絶対性と普遍性

前回に論じたポイントは重要なので、もう少し掘りさげて考えてみることにしましょう。 倫理のための倫理というイデーにしたがうかぎり、倫理への呼びかけは、次のようなものにならざるをえません。「さあ、みなで普遍的な倫理法則を守ろう。よい世界に向けて…

応答としての倫理

ところで、倫理法則を神からの掟として捉えるときには、倫理の次元そのものが持つ意味も大きく変わってきます。 倫理のための倫理というイデーにおいては、倫理は人間の自発的な意志によって打ち立てられるものでした。これは、カントが意志の自律と呼んでい…

水平軸から垂直軸へ

第三のアプローチは、倫理の根源には神からの命令があるのではないかと考えます。これから、このイデーにしたがって、少し考えてみることにしましょう。 神が、人間たちに向かって掟を与えます。「あなたは、殺してはならない。姦淫してはならない。盗んでは…

第三のアプローチ:神による掟

第三のアプローチは、それまでの二つのアプローチとは違い、人間を超えたところから倫理法則の根源に迫ろうとします。すなわち、この論によれば、人間が法則を守らなければならないのは、それが神による掟だからだというのです。 「なぜ突然に、そんな話にな…

悪と反世界

倫理的な観点からみて「あってはならない時空」のことを反世界と呼ぶことにすると、倫理と悪をめぐる問題の見通しが立ってきます。 悪(他人に害を与えること)は、反世界を世界のうちに生みだします。アウシュヴィッツのようなケースにおいては、この事態が…

アウシュヴィッツから考える

ところで、僕が本格的に絶対悪という問題について考えはじめることになったきっかけは、今年の四月に行った、アウシュヴィッツへの旅行でした。 アウシュヴィッツでユダヤ人たちがこうむった悲惨と痛みについては、また別の機会に考えることにしたいと思いま…

絶対悪の問題

善なるものそのものへの憎しみは、一般に、ふだん表面にあらわれてくることはありませんが、ふとした時に、あるいは、時代が悪いものになってきたときに浮かびあがってきて、人間を引きさらってゆくことがあります。 倫理法則を破るという場合には、少なくと…

善なるものへの憎しみ

よりよい世界、もはや誰も傷つくことのない世界に向かって倫理を引き受ける意志の由を持つことのうちには、人間なるもののの偉大さが示されています。ところが、倫理にとって最も大きな危険が現れてくるのも、おそらくはこのときに他なりません。 倫理のため…

人間の尊厳について

誰も他の人間を傷つけることのない世界をめざして、努力しつづけること。わたしが倫理の原則に従属するということは、そのまま、人類全体に向かっての呼びかけを行うことになります。 ただし、人間には誰ひとりとして、他の人間が倫理法則に従うようにさせる…

理性は世界国家を夢みる

すべての人が自発的に倫理法則にしたがって生きる、目的の国。この国こそが、倫理のための倫理というイデーがたどりつく終着点です。 おそらく、この国は本質的にいって、世界国家であるほかありません。人類のすべてをメンバーとして組み入れる普遍的な共同…

目的の国への呼びかけ

わたし自身が自らの意志にしたがって、倫理法則に従属する。カントはこのことを、意志の自律と呼んでいました。 倫理のための倫理というイデーを追いもとめつづけていた私たちの探求は、ここにいたって、『実践理性批判』におけるカントの探求と大きく重なり…