イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧

哲学の歴史と「存在」の問題圏

ハイデッガーが設定した「存在の意味への問い」そのものに移る前に、哲学がこれまでこの「存在」なる問題とどのように向き合ってきたのかについて、短く振り返っておくこととしたい。二千年以上続いてきた哲学の営みにおいて、存在するという動詞が鳴り響い…

存在の意味への問い、あるいは、「ある」の衝撃について

ハイデッガー自身の言葉から始めることにしよう。『存在と時間』はプラトン『ソフィスト』の一節を引用した後、次のように始まる(翻訳は、熊野純彦氏による岩波文庫版から行う)。 「『存在する』という語で、私たちはそもそもなにを意味しているのか。この…

哲学者の光と影 ハイデッガーとナチズム

『存在と時間』の内容に入る前に、もう一点だけ付け加えておかなければならないことがある。それは、この本の著者であるマルティン・ハイデッガーが、この本を出版した六年後の1933年に、ナチス党の党員としてフライブルク大学の学長に就任したという歴史的…

1927年 『存在と時間』出版の衝撃

外面的な事情を確認するところから始めることにしよう。1927年に出版されたマルティン・ハイデッガーの『存在と時間』は、当時の哲学界でたちまち未曾有の反響を引き起こした。 出版当時30代の後半であったハイデッガーはそれまで、なかなか本を出さないこと…

ハイデッガー『存在と時間』を読む

今回の記事から始まる探求で試みてみたいのは、二十世紀の哲学の歴史を筆者なりの仕方で振り返ることである。 時が経つにつれて、筆者の哲学の探求はますます「存在の超絶」という理念に収斂するようになってきている。この理念自体は、哲学の歴史との対話の…

省察への補足:永井均氏の哲学について

前回までの『デカルト的省察』においては、すべてを飲み込むような懐疑の自己破壊的な力が振るわれる中で、省察するわたしがいかにして一人の実存する人間としての自分自身を取り戻すことができるのかを探求した。次の探求に入る前に、この問題設定が、今の…

デカルト的省察の終わりに

当初の問い: 何の前提を置くこともなしに、絶対に疑うことのできない真理なるものが何か存在するか? この省察を始めるにあたって、私たちは上の問いを立てた。この問いに対してはいまや、次のように答えることができそうである。 答え: 省察するわたしが…

補論:「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」を拒んでしまった時には、何が起こるのか?

最後に、後回しにし続けてきた論点を補足しておかなければならない。 問い: 懐疑するわたしが「わたしは人殺しになるわけにはゆかない」という論理を受け入れない時には、何が起こるのか? 私たちの省察においては、すべてを飲み込むような懐疑の自己破壊的…

省察するわたしが、悪霊に向かって言いうること

前回までで省察の行程をたどり終えたが、この行程に関してもう一つ、哲学上の帰結を確認しておくことにしよう。 論点: 懐疑する省察は最後の地点で、悪霊による欺きの可能性をも超えて、信を信じることの根拠を提示する。 「わたしの目に映るすべてのことは…

「今や、『この生』が取り戻される……。」

さて、他者への信を受け入れる決断がなされ、「他者であるあなたは存在する」が省察するわたしにとって疑いえないものになるのと同時に、私たちが以前に根源的信と呼んだ信もまた疑いえないものになってくると言えるのではないか。 根源的信(再提示): 根…

自己破壊的な疑いの果てに、辿り着いた存在

論点: 「他者であるあなたの心が存在する」は、懐疑するわたしの疑いが決して破壊し尽くすことのできない、最後の一点にほかならない。 懐疑とは、ある意味では自らの生に対して振るわれる自己破壊に等しい。ひょっとしたらすべては嘘なのではないか、世界…

信と決断、超絶へと向かう実存

省察するわたしの決断: わたしは他者への信を、妥当するものとして信ずる。すなわち、わたしは、「他者が存在する」という事実を、あるいは事実と思われるものを、まさしく事実であると受け止めることを決意する。 この決断に関してまず注意しておかなけれ…

決断の瞬間

他者への信: わたしがこの生において出会う他者たちの意識は、存在する。 このような信は、それがなければ私たち自身の生が全く成り立たないというくらいに根底的なものである。そして、これまでの検討の結果示されつつあるのは、省察し、懐疑するわたしに…

他者への信と、哲学的ゾンビ

私たちの省察がたどり着いた「絶対に疑いえないもの」について、さらに掘り下げて考えてみることにしよう。 省察の根本洞察: 他者の意識は、わたしが人間として生き続けようとする限りは絶対に疑いえないものとして、認識の主体であるわたしを超えたところ…

「絶対に疑いえないもの」への到達

もしもある経験が、夢や虚構ではなく現実のものであるならば、他者の意識の存在を認めないわけにはゆかない。もしそうであるとすれば、このことは、「現実であると思われる経験の中では、いかなる時にも他者の存在を認めないわけにはゆかない」ことを意味す…