イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2022-07-01から1ヶ月間の記事一覧

「女優の軽やかさは、どこから来るのか?」:「危機」におけるキルケゴールの言葉から考える

「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるにあたっては、「実存」の語を現在用いられているような意味ではじめて使用した先人の言葉を参照しておくこととしたい。セーレン・キルケゴールが1848年に発表した「危機」(正式題名「危機…

カルナナンダのように、走りきれたら:1964年、東京オリンピックにおける出来事を通して考える

今回は、「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるために、一つのエピソードを取り上げてみることにしたい。それは今から60年ほど前、1964年に起こった出来事である。 1964年の東京オリンピックにおける10000メートル走で、後々まで…

「とげ」と共に生きるということ:『コリント人への第二の手紙』を通して考える

私たちは「生きることの重荷」、あるいは「被投性の重み」について、どのように考えたらよいのだろうか。この問題を「良心の呼び声」との関連において掘り下げるために、今回の記事では、『コリント人への第二の手紙』第12章におけるパウロの言葉を参考にし…

「自分自身を愛することの難しさ」:〈使命〉=「最も固有な存在可能」の問題圏について考えるために

私たちはこれまで「重荷」という表現を用いてきたが、この言葉はハイデッガー自身が『存在と時間』において用いてもいる。「負い目ある存在」について語られている、次の箇所を引用してみる。 「存在していながら、現存在は被投的なものであり、じぶん自身に…