イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

カルナナンダのように、走りきれたら:1964年、東京オリンピックにおける出来事を通して考える

 
 今回は、「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるために、一つのエピソードを取り上げてみることにしたい。それは今から60年ほど前、1964年に起こった出来事である。
 
 
 1964年の東京オリンピックにおける10000メートル走で、後々まで人々の記憶に残ることになった一人の選手がいた。その選手こそ、セイロン(現在のスリランカ)のラナトゥンゲ・カルナナンダに他ならない。
 
 
 といっても、この選手はレースに勝ったというわけではない。反対に、カルナナンダ選手のレースでの成績は最下位だったのである。それというのも、彼はこの日には体調を崩していて、本来ならばレースどころではないという位の最悪のコンディションだったのであった。
 
 
 アメリカ人選手のビリー・ミルズが「やり切った!」という表情で、喝采を浴びながらトップでゴールした時には、カルナナンダ選手は実に4周の遅れをとっていた。どう頑張っても逆転できる可能性がないのは明らかだったので、当然のことながら誰もが、彼は走るのを途中でやめるものと思っていた。
 
 
 ところが、カルナナンダは走るのをやめなかったのである。彼は、「このレースは最後まで走りきる」と最初から決意していた。周囲からどう思われようとも、絶対に最後までやり抜かなければならない。会場にいた人々はその時になるまで知らなかったが、彼のこの決意はまことに固いものだったのである。
 
 
 人間の熱意や決意というのは、普通思われているよりもはるかに確固とした仕方で、他者たちに伝達されてしまうもののようである。最初のうちは「何だ、あの選手は?」と言って笑ったり、やじを飛ばしたりしていた観客たちも、途中からは彼の姿に圧倒され、黙り込んでしまった。そして、彼がゴール直前にラストスパートをかけ始めた頃には、会場にいた人々はみな思わず大歓声を上げて、彼を応援していた。こうして、大勝負のまさにその日に最悪の体調不良に襲われていたラナトゥンゲ・カルナナンダは、ゴールした時には、予想を超えて巻き起こったスタンディングオベーションを浴びていた。彼はその場にいた人々の間に、消えることのない記憶を刻み込んだのである。
 
 
 
東京オリンピック ラナトゥンゲ・カルナナンダ ビリー・ミルズ 被投性 重荷 最も固有な存在可能
 
 
 
 この出来事が起こったのは、時間にすればわずかな間のことだっただろう。それでも、「瞬間」は寓話あるいは象徴となって働いて、生きることの真実を描き出す。カルナナンダ選手をめぐるこのエピソードは私たちに、被投性という事実との向き合い方について教えてくれるところが少なくないと言えるのではないか。
 
 
 カルナナンダを襲ったアクシデントは、レース当日の彼からしてみれば、「なぜこの大切な時に、こんなことが……」という運命の打撃によって、彼を打ちのめしかねないものであったものと推察される。事実のうちに投げ込まれていることの「重荷」は私たちにさまざまな衝撃や挫折を与えずにはおかないのであって、私たちの意志はそのことのうちで、時には、これ以上戦い続けてゆくのはもう不可能だと思われるようなことも経験することだろう。
 
 
 それでも、自分自身に与えられた務めを果たし続けようとする人間は、輝きを放たずにはいないものなのではあるまいか。1964年、諦めることなくトラックを走り続ける一人の人間の姿を目撃した人々は、出会うとは思ってもみなかったものに出会った。すなわち、彼らは自らの被投性の重みにもくじけることなく奮闘し続ける人間存在の栄光を目撃したのであって、そのことを通して彼らの心は、真の意味において人間的なものの放つ輝きを、生き生きと感じ取ったのであった。
 
 
 「最も固有な存在可能」を問うとは究極において、自分自身に与えられる「使命」を問うことに他ならない。「負い目ある存在」には重荷という性格が付きまとうことは否定できないとしても、この概念のうちには「果たすべき務めを果たす」という栄光に到達する可能性が含まれているということもまた、確かなのではないだろうか。ビリー・ミルズになりたくてたまらない人にとっては、レースに敗北するというのは辛くてたまらない出来事であるかもしれない。生きることには望もうと望むまいと、何らかのレースの連続という側面があることも確かである。しかし、ビリー・ミルズであろうとなかろうと、全ての人には一つのこと、たった一つのことだけはいかなる状況にあっても可能なのであって、それこそは1964年のラナトゥンゲ・カルナナンダのように、与えられたレースを全力で走りきることに他ならない。場合によっては慎ましく、目立たないものであるとしても、自らに与えられた務めを果たし続けることの幸福だけは、人間から取り去ることは決してできないものと思われるのである。
 
 
 
 
[読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]