イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「女優の軽やかさは、どこから来るのか?」:「危機」におけるキルケゴールの言葉から考える

 
 「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるにあたっては、「実存」の語を現在用いられているような意味ではじめて使用した先人の言葉を参照しておくこととしたい。セーレン・キルケゴールが1848年に発表した「危機」(正式題名「危機および一女優の生涯における一つの危機」)における次の文章を引用するところから、議論を開始してみる。
 
 
 「彼女のもっているその規定しえないあるものは、最後に、次のことを意味していると言えよう。すなわち、彼女は舞台上の緊張状況とまったく正しい関係にある、ということである。
 
 
 このテクストでキルケゴールは、当時のデンマークで有名であった女優、J・L・ペーツゲスの魅力について考察を加えている。ペーツゲスが舞台の上に現れると、観客たちは、彼女の周囲に漂っているいわく言い表しがたいアウラに捉えられてしまう。この魅力、この「規定しえないあるもの」は一体、どこから来るのだろうか?キルケゴールがここで挙げている答えは、上にもあるように、「それは、彼女が舞台上の緊張と取り結んでいる正しい関係に由来している」というものである。
 
 
 キルケゴールが言いたいのは、次のようなことである。乙女ペーツゲスは、確かに美しい。しかし、美しい乙女ということならば世の中にはもっと沢山の実例がいるわけで、「彼女は特別だ!」という感覚を多くの人が抱く理由にはならない。この特別なもの、一人の女優を女優たらしめている説明することのできない何物かを、一言では語り尽くすことはできないけれども、それは一つには、彼女が自分に襲いかかってくる緊張の重みを軽やかさに転化してしまう、特異な賜物を持ち合わせているからではあるまいか。
 
 
 すなわち、舞台上には多くの人々の注目する視線が集まっていて、いわば「これから『何か』が起こる!」という予感でみなぎっている。普通の人ならばその緊張の重みで押しつぶされてしまうことだろうが、ペーツゲスは女優であり、それも、女優の中の女優なのである。彼女にのしかかってくる全ての重圧が、まるである種の奇跡ででもあるかのように、舞台の上で、彼女自身の振る舞いの軽やかさへと生まれ変わっている。これが、ペーツゲスの姿を実際に見たキルケゴールが、彼女自身のうちに息づいている「規定しえないあるもの」について与えた説明の一つであった。
 
 
 
被投性 実存 セーレン・キルケゴール 危機 デンマーク J・L・ペーツゲス 重荷
 
 
 
 キルケゴール自身の言葉を、少しだけ長くなるが引用しておく。
 
 
 「[…]緊張というものは、その重くるしさをあからさまに示すことができるとともに、またその反対のこともできる。すなわちそれは重くるしさを隠すこともできる。そしてそれを隠すだけでなく、たえず別のものとおきかえることができる、すなわちそれは、軽やかさへと転化せしめ変容させることができる。それゆえこの軽やかさは、緊張の重くるしさの中に、人目には見えずに根ざしているのであるが、しかしこの緊張の重くるしさも人目には見えず、また予感すらもされない。ただ軽やかさだけが前面に出ているにすぎない。
 
 
 文章が書かれた当時にはハイベルク教授夫人となっていたペーツゲス本人は「危機」を読んで、この「舞台上の緊張」について書かれた箇所に最も深い感銘を受けたとのことである。キルケゴールの言葉は、舞台人である彼女の心にも響くものがあったということなのではないかと思われる。
 
 
 映画や演劇にしても、音楽にしても、あるいは、お笑い芸人のコントやパフォーマンスにしても、何であれ、人間の心を奥底から震わせることが目指されている場合には、究極的にはただ一つのことだけが問題なのである。すなわち、生きることの、実存することの「重み」に向き合い、格闘することのただ中で「表現」と呼びうるような何物かが生まれ出てくるのを見出だすことだけが問題なのであって、「重み」と正面から対決する場合であっても、「重み」を解きほぐすようにして歌に乗せたり、「重み」を突拍子もない笑いの爆発力へと転化させることで、今にも強張りそうになっている私たちの心をリラックスさせたりすることが目指されている場合であっても、そのことは変わらないのではあるまいか。

 

 

 私たちの心を根底から震わせることができるのは、実存することの「重荷」を耐え抜き、「表現」を生み出そうと意志し続けることをやめなかったもののみなのである。この点、キルケゴールが論じているかのペーツゲスは、繰り返しにはなってしまうが、実に非凡な賜物の持ち主であったものと思われる。つまり、彼女は自分にのしかかってくる「緊張の重み」の存在を観客に気づかせることのないまま、あたかも軽やかさそのものでもあるかのような瞬間を作り出すという、まさしく稀にして困難な術を身につけていたのであった。

 
 
 現実の人生には舞台や作品のようにはゆかない部分もあることは確かであるが、女優ペーツゲスに関するキルケゴールの「危機」における考察からは、私たちが生きてゆく上での励ましとなるような実存論的事実を引き出すこともできるのではないだろうか。被投性の重みは、時に私たちを打ちのめさずにはおかないほどに重苦しいものとなることもあるとはいえ、人間が行うことのできる最も見事で切実な飛翔は、私たちが私たち自身の存在の「重み」を「表現」へと、〈生の形式〉そのものへと転化させようと試みる時にこそなされるのかもしれない。安易な楽観に満足することのできない主題ではあるが、私たちはキルケゴールのテクストに拠りつつ、もう少しこの問題を掘り下げてみることにしたい。
 
 
 
 
[この一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]