イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

「とげ」と共に生きるということ:『コリント人への第二の手紙』を通して考える

 
 私たちは「生きることの重荷」、あるいは「被投性の重み」について、どのように考えたらよいのだろうか。この問題を「良心の呼び声」との関連において掘り下げるために、今回の記事では、『コリント人への第二の手紙』第12章におけるパウロの言葉を参考にしてみることとしたい。この章の5節において、彼は次のように言っている。
 
 
 「しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。
 
 
 自分に与えられた啓示について語った後、パウロは自らが抱えている「弱さ」について書き始める。そこで彼が語るのは、彼を悩ませ続けている「肉のとげ」についてである。
 
 
 この「肉のとげ」の具体的な内容は明かされていないが、パウロの抱えているいかんともしがたい身体の不調、あるいは病のことであったことは間違いない。つまり、「自分には、果たすべき務めがある!」という確信に突き動かされながら生きていたこの人物にも、どうにもならない悩みの種があったというわけで、パウロは、「この『肉のとげ』さえなければ……」と日々不安に襲われつつ、苦しみもだえ続けていたのである。
 
 
 彼は信仰者であったため、このことについて祈る。「神よ、わたしの務めを果たすためにも、どうかこの『とげ』を取り除いてください……」と何度も繰り返し祈ったのであるが、『コリント人への第二の手紙』第12章9節によるならば、パウロの嘆願に対して神が与えたのは、次のような言葉であった。
 
 
 『コリント人への第二の手紙』第12章9節における、神の言葉:
 「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ発揮されるのだ。」
 
 
 すなわち、彼の神は、彼が「どうしてもこれだけは……」と願った「重荷=肉のとげ」を取り除くことはしなかったのである。むしろ、神が示したのは「恵みはすでに十分である」という事実だったのであって、パウロは、パウロ自身の力が「いかんともしがたい『弱さ』を抱えたまま生きること=重荷に苦しみあえぎながら、務めを果たし続けること」のうちでこそ発揮されるのだと示されたのであった。結局治らなかったというところにかえってリアルさを感じさせられる一節であるが、このエピソードを通して私たちは、「生きることの重荷」との向き合い方について、重要な教訓を引き出すこともできるのではないだろうか。
 
 
 
 被投性 良心の呼び声 コリント人 パウロ 肉のとげ 信仰者 重荷 啓示 ジョルジョ・アガンベン
 
 
 
 周辺の箇所を読んでみると、パウロ自身はこの「肉のとげ」のことを、自分が思い上がらないために与えられたものとして理解していたことがわかる。
 
 
 すなわち、パウロはもともとラビになるために、筋金入りのエリート教育を受けた人間であった。その上に、天上の事柄についての知恵を与える啓示まで受けた(このことに対する確信は、彼の中では決して揺らぐことがなかった)とあっては、彼にはおそらく、「自分は特別な人間だ!」という思い上がりの気持ちが起こってくる危険は多々あったものと思われるのである。
 
 
 ところが、実際はそうはならなかったのであって、その理由というのが上にも述べたように、彼にはどうにもならない「肉のとげ」が与えられていたからなのであった。おそらくは、「これさえなければ、自分にはもっとよい働きができるのに、なぜ……」と思ったことは数知れないものと推測される。それでも、「とげ」=「重荷の中でも、特に重苦しいもの」を背負ったまま歩んでゆくのが、パウロの人生であった。ただし、この「とげ」は果たして、彼にただ単に否定的な影響を及ぼすだけのものだったのだろうか。
 
 
 むしろ、この「とげ」は、彼が自分自身に与えられた務めを果たす上で、すなわち、辛かったり、苦しかったり、「もう生きてゆくのなんて沢山だ」と思ったりしている人々に救いを告げ知らせて、「やっぱり、生きてみようかな」とか、「ああ、辛かったけれど、生きていて本当によかったなあ、嬉しくて涙が流れてくる」といった思いに満たされる人がこの地上に一人でも多く増し加えられるように、力を尽くして奔走するという自らの使命を果たす上で、単なる障害よりもはるかに大きな意味と役割を持っていたのではなかったか。人間は、自らも苦しむことを通して隣人たちの苦しみを理解できるようになってゆくという事実を考えてみる時には、そのように思われてならないのである。
 
 
 「力は弱さの中でこそ発揮される」という言葉は、現存在である私たちが引き受けることになる「負い目ある存在」の、その重荷としての性格は、私たちをただ途方に暮れさせるだけのものではないことを示唆している。生きることが多かれ少なかれ、何らかの重荷を背負ってゆくことを意味するとしても、私たちの心の中に響いてくる「内なる呼び声」は、私たちの生が重荷を引き受けることのうちでこそ「務めを果たすこと」の幸福にたどり着くものであると語っているのではないだろうか。痛みや不安というのは誰でも可能な限り避けたいものではあるけれども、「とげ」のない幸福のありかを探し求めるよりも、「『とげ』があっても幸福」と呼べるような実存のあり方を見定めてゆくことの方こそが、哲学の務めとしてはふさわしいと言えるのかもしれない。私たちは引き続き、「良心の呼び声」との関連において「生きることの重荷」との向き合い方について考えてみることにしたい。
 
 
 
 
[今回の記事では、パウロの言葉を通して「被投性の重み」について考えることを試みました。今世紀のイタリアの哲学者、ジョルジョ・アガンベンパウロについてたびたび論じていますが、哲学の観点からパウロの書簡を読むことからは、なお多くの可能性を引き出しうるのではないかと思います。読んでくださっている方の一週間が、平和で穏やかなものであらんことを……!]