イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2022-04-01から1ヶ月間の記事一覧

日常の風景が、「問いかけ」の場面へと変わるとき:『存在と時間』第55節が描き出す情景

「呼び声」の分析を進めてゆくために、ハイデッガーの以下の言葉を取り上げつつ、「聞く」ことの可能性について考えてみることとしたい。 「〈ひと〉の公共性やその空談へとみずからを喪失しながら、現存在は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことにあっ…

「彼方から彼方へと呼び声がする」:呼び声に耳を澄ますという、実存論的分析の課題について

「良心の呼び声」の現象に本格的に取り組んでゆくにあたって、まずは、この分析が向かって行く方向を前もって見定めておくことにしたい。 論点: 「良心の呼び声」に関する実存論的分析は、「内なる呼び声に耳を澄ますこと」とでも言うべき態度を通して遂行…

「ダイモーンの呼び声」:ソクラテスのケースから出発して、私たちの日常的な経験について考える

「呼び声としての良心」という主題について考えるにあたっては、私たちはやはり、まずはよく知られた先人の例から出発してみるのがよいだろう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスは次のように語っている。少し長くなってしまうが、引用し…

「深淵のただ中において、あなた自身であれ!」:議論の出発点「良心は開示する」

ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、良心をめぐる分析に入ってゆくこととしたい。 「良心の分析は、その出発点として、良心という現象にかんする中立的な所見を採用する。すなわち、良心はなんらかの様式で、だれかになにごとかを理解するように…

「本来的なわたし」なるものが、果たして本当に存在するのか?:「良心の呼び声」の分析へ

『存在と時間』読解は、今回の記事から「良心の呼び声」の分析に入ることとしたい。これまでの議論に対する次のような疑問を提起してみることを通して、本格的な分析に入ってゆく上での導入を試みてみることにしよう。 これまでの『存在と時間』の議論に対す…

「今日も明日も、やり続けてみよう」:デカルト哲学における「高邁」の情念について

自己を掴み取るとはいかなることであるのかを探るために、もう一人、近代の哲学者の言葉に耳を傾けておくこととしたい。デカルトは『省察』の第三部の冒頭において、「重視」や「軽視」の情念について語り始めたのち、次のように言っている。 「そして、知恵…

「それは世にも美しい、驚嘆すべき像であった……。」:『饗宴』において、アルキビアデスはソクラテスという人物のうちに、何を見たのか

自己であること、一人の人間が、本当の意味で「わたし自身」と言えるような一貫性を持つとは、どのようなことなのだろうか。この点を探るために、今回の記事では、プラトン『饗宴』の最終部分に位置する、アルキビアデスによるソクラテス賛美の箇所について…