ハイデッガー『存在と時間』を読む
「負い目ある存在」の「重荷」としての性格について議論を重ねてきたことで、私たちはようやく「決意性」の概念について論じる準備が整いつつある。もう一つだけ事例を取り上げた後に、ハイデッガーの『存在と時間』に戻ることとしたい。今回扱う事例は1956…
前回に引き続き、「存在することの重み=舞台上の緊張の重苦しさ」に関するキルケゴールの言葉を題材にしつつ、考察を掘り下げてみることにしたい。同時代の女優であったJ・L・ペーツゲスが体現している「軽やかさ」について、彼は「危機」の中で次のように…
「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるにあたっては、「実存」の語を現在用いられているような意味ではじめて使用した先人の言葉を参照しておくこととしたい。セーレン・キルケゴールが1848年に発表した「危機」(正式題名「危機…
今回は、「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるために、一つのエピソードを取り上げてみることにしたい。それは今から60年ほど前、1964年に起こった出来事である。 1964年の東京オリンピックにおける10000メートル走で、後々まで…
私たちは「生きることの重荷」、あるいは「被投性の重み」について、どのように考えたらよいのだろうか。この問題を「良心の呼び声」との関連において掘り下げるために、今回の記事では、『コリント人への第二の手紙』第12章におけるパウロの言葉を参考にし…
ハイデッガーの言う「負い目ある存在」を直観的に理解するために、今回は一つの具体的なケースを見てみることにしたい。アウグスティヌスの『告白』第八巻第七章における次のような場面を元に考えてみることにしよう。 「さて、わたしはこの世の希望を捨てて…
今回の記事から、良心の現象をめぐる分析は新しい領域へと踏み込んでゆくことになる。まずは、次の問いを立てるところから探求を開始してみることにしたい。 問い: 「良心の呼び声」は私たち人間存在に対して、一体何を告げ、理解させるのだろうか? 私たち…
今回の記事では、「良心の呼び声」の性格を見定めるというこれまでの作業を総括する意味で、「良心とは気づかいの呼び声である」という『存在と時間』第57節のテーゼを検討しておくこととしたい。 「現存在が呼ぶ者であり、同時に呼ばれる者であるとする命題…
「良心の呼び声」を聞くことは人間に、どのような変容をもたらすのだろうか。この点について考えてみるために、前回に引き続いて、マザー・テレサの言葉に耳を傾けてみることとしたい。 「私はあの時のことを、絶対に忘れることはないでしょう。ある日ロンド…
「良心の呼び声」は現存在であるわたしの思惑を超えるところから、わたしに降りかかってくる。私たちはこの事態についてすでに考察を重ねてきたが、この論点については『存在と時間』の読み幅を拡げるという意味でも、一つの問題提起を行っておくこととした…
呼び声の性格を見定める作業から導かれてくる帰結を引き出すという試みも、そろそろ大詰めを迎えつつある。前回に見た「『それ』が呼ぶ」に続く箇所を引用しつつ、考えてみることにしよう。 「『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。…
良心の呼び声の性格をより根源的な仕方で捉えるために、私たちは、ハイデッガーの「『それ』が呼ぶ」という定式に着目してみることにしたい。 「呼び声はそれどころか、私たち自身によって計画されるものではまったくない。準備されるものでも、随意に遂行さ…
良心の呼び声についての考察を深めるために、「呼び声は通り過ぎる」とハイデッガーが語っている事態について、掘り下げて考えてみることにしたい。 「現存在は、他者たちとじぶん自身にとって現存在として世間的には理解されている。そのような現存在が、こ…
今回は少し立ち止まって、次の問題についてじっくりと考えてみることにしたい。 問題提起: 「聞く」ことをめぐる『存在と時間』の議論は2022年の現在を生きている私たちに対して、私たち自身の生のあり方に関わる非常に重要な問いを投げかけていると言える…
「呼び声」の分析を進めてゆくために、ハイデッガーの以下の言葉を取り上げつつ、「聞く」ことの可能性について考えてみることとしたい。 「〈ひと〉の公共性やその空談へとみずからを喪失しながら、現存在は、〈ひとである自己〉の言うことを聞くことにあっ…
「良心の呼び声」の現象に本格的に取り組んでゆくにあたって、まずは、この分析が向かって行く方向を前もって見定めておくことにしたい。 論点: 「良心の呼び声」に関する実存論的分析は、「内なる呼び声に耳を澄ますこと」とでも言うべき態度を通して遂行…
「呼び声としての良心」という主題について考えるにあたっては、私たちはやはり、まずはよく知られた先人の例から出発してみるのがよいだろう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、ソクラテスは次のように語っている。少し長くなってしまうが、引用し…
ハイデッガー自身の言葉を取り上げるところから、良心をめぐる分析に入ってゆくこととしたい。 「良心の分析は、その出発点として、良心という現象にかんする中立的な所見を採用する。すなわち、良心はなんらかの様式で、だれかになにごとかを理解するように…
『存在と時間』読解は、今回の記事から「良心の呼び声」の分析に入ることとしたい。これまでの議論に対する次のような疑問を提起してみることを通して、本格的な分析に入ってゆく上での導入を試みてみることにしよう。 これまでの『存在と時間』の議論に対す…
自己を掴み取るとはいかなることであるのかを探るために、もう一人、近代の哲学者の言葉に耳を傾けておくこととしたい。デカルトは『省察』の第三部の冒頭において、「重視」や「軽視」の情念について語り始めたのち、次のように言っている。 「そして、知恵…
自己であること、一人の人間が、本当の意味で「わたし自身」と言えるような一貫性を持つとは、どのようなことなのだろうか。この点を探るために、今回の記事では、プラトン『饗宴』の最終部分に位置する、アルキビアデスによるソクラテス賛美の箇所について…
さて、私たちは読解を進めてゆくにあたって、なぜハイデッガーが『存在と時間』において「良心の呼び声」なるテーマについて論じたのか、その必然性を理解すべく試みてみることとしたい。その上で押さえておく必要があるのは、以下のような論点なのではない…
1927年に出版された『存在と時間』が当時の人々にもたらした衝撃の内実とは一体、どのようなものだったのだろうか。この点についての理解を深めるために、今回の記事では、以下の論点について掘り下げておくこととしたい。 論点: 『存在と時間』の序論部分…
「自己」の問題にアプローチするための助走の意味も兼ねて、1927年の『存在と時間』出版が著者のハイデッガー自身にとってどのような意味を持つ出来事であったかという点について、改めて考えておくこととしたい。後年のハンナ・アーレントはこの本が収めた…
『存在と時間』出版以前のハイデッガーをめぐる状況について、もう少し掘り下げておくことにしたい。まずは、引き続きアーレントの回想の言葉に耳を傾けつつ、当時の状況の方へと遡ってみることにしよう。 「第一次世界大戦後の当時、ドイツの大学には叛乱こ…
「良心の呼び声」の分析へと向かう準備作業として、『存在と時間』が出版される1927年以前の状況に遡った上で、この本が哲学の歴史において持つ意味について、改めて考えてみることにしたい。 論点: 20世紀の哲学の歴史の流れを決定づけた書物である『存在…
死刑の判決が下されたのち、『弁明』のソクラテスは、これからアテナイで起こるであろう出来事について、一つの「予言」をすると言い始める。少し長くなってしまうが、その箇所を引用しつつ、検討してみることとしたい。 「諸君よ、諸君はわたしの死を決定し…
ソクラテスの言葉を通して、哲学する人間の実存のあり方について、もう少し掘り下げてみることにしよう。プラトンの『ソクラテスの弁明』において、彼はこう言っている。 「どうか騒がないでいてください、アテーナイ人諸君。どうぞ、わたしが諸君にお願いし…
私たちは『存在と時間』における「死への先駆」につての議論を終えたが、この主題に関連して、一人の思索者の生きざまに関する省察を深めておくこととしたい。まずは、次の言葉を取り上げるところから始めてみることにしよう。 「世にもすぐれた人よ、君はア…
「死への先駆」をめぐる議論に決着をつける時が、ようやくやって来たようである。少し長くなってしまうが、最初に、ハイデッガー自身が探求を総括している部分を引用しておくこととしたい。 「実存論的に投企された、死へとかかわる本来的な存在の性格づけは…