イデアの昼と夜

東京大学で哲学を学んだのち、ブログを書いています。

2019-06-01から1ヶ月間の記事一覧

大事をとって、今日も

「……今日も休みですか?」 うぅ、まだ記事が書ききれていないのである。書いてて途中で更新が停止するのもアレなので、今日もいちおう休みということにする。しかし、かえすがえす、このブログを読んでくださっている奇特な方々には感謝というほかないのであ…

本日はお休みします

「……あれ?新しい話を始めるんじゃなかったんですか?」 うむ。書き始めてたんだけど、なんか途中で記事がボツっちゃったりして更新が追いつかなくなっちゃったのである。ブログをやってて、たまにこういうことが起きてるような気もするが、とりあえず、今日…

「わたし」についての探求の終わりに

今回の探求の結論: わたしは他の誰でもない「この人間」である。 私たちは、意識の与えと「この人間」の与えという二つの与えが重なり合い、「わたしはこの人間として、わたし自身である」という言明が成立する地点にたどり着きました。考察を掘り下げてゆ…

この時代の病

反出生主義の論理構造: 1. 至高性の直観を持つわたしは、自分自身を純粋意識として思い描く。 2. しかし、それゆえにわたしは、わたし自身が血と肉を備えた一人の「この人間」であることを受け入れることができない。 「この人間」としてのわたしは、病み、…

反出生主義の根底にあるもの

今回の探求も、そろそろ終わりにさしかかりつつあるようです。 論点:わたしの存在の与えと「この人間」の与えとは、理念においては区別できるとしても、現実においてはひとつながりの与えとして与えられるのではないだろうか。 問題を整理してみましょう。…

ハイデッガーについて

哲学においては、根本的な事柄をいくら詳細に論じたとしても十分ということはまずありませんが、そろそろわたしの存在の与え、あるいは意識の与えという論点から次の論点(「この人間」の与え)に移ることにします。しかし、その前に、次の点をあらためて確…

認識論のうちに、非-認識論を

コギトの存在について: コギトの存在は、認識のあらゆる力能から離れたところで捉えられなければならない。 イブン・シーナーは、およそ身体の感覚なるものを全く持つことのない「空中浮遊人間」を想定していましたが、おそらくはそれをさらに突き詰めて、…

「スム・エルゴ・コギト」あるいは、存在の与えについて

「わたし」という存在に関する今回の探求も、そろそろ大詰めを迎えつつあるようです。 コギトに関する一考察: 「コギト・エルゴ・スム」という命題は、認識の順序からすれば正しいけれども、事柄の順序からいえばむしろ「スム・エルゴ・コギト」となること…

「意味のある死」

問いへの答え:わたしが死んだ後にも、世界はそのまま続いてゆくであろう。 わたしの死は、わたしの想像を超えている。それというのも、意識としてのわたしには、自分自身についてはいつでも「わたしは存在する」としか考えることができないからです(所謂「…

わたしが死んだ時、世界は

論点をさらに掘り下げるために、一つの問いをここで提起しておくことにします。 問い: わたしが死んだ後にも、世界はそのまま続くのだろうか。 常識的に言えば答えは分かりきっており、たとえわたしが死んだとしても、世界はそのまま続くに決まっているとい…

事実性の与えについて

事実性の与えについて: 事実性における「この人間であること」の与えは、超越論的な意識の与えに劣らず厳粛なものであるように思われる。 考える「わたし」には、「わたしは実は『この人間』ではなく、むしろ『この人間』であると思い込まされているだけな…

「他の誰でもない、この人間であること」

わたしの「人間性」: わたしが「この人間」であることの真理性は、絶対確実性ではなく事実性のオーダーに属する。 すでに見たように、わたしにとって、わたしが存在することは絶対に疑うことのできない真理です(「コギト・エルゴ・スム」)。これに対して…

超越論的-経験的二重体

命題の再提示: わたしとは、他の誰でもない「この人間」である。 これからこの命題を擁護してゆくにあたって、まずは次の点について考えてみることにします。 人間存在の規定: 人間とは、超越論的-経験的二重体である。 ここでは、ミシェル・フーコーが『…

コモン・センスを擁護する

反対命題の再提示: わたしとは、純粋意識である。 悪霊の想定(前回までの記事参照)を踏まえると、この反対命題から出発して、次のような立場に立つことも可能です。 反人間主義的自己観: わたしとは、「この人間」ではない。 このような自己観の行き着く…

「名づけえぬもの」

哲学的観点から見た、悪霊の排除不可能性: 何ものかがわたしを「この人間」であると思いこませようとしているという可能性は、原理的に言って排除することができない。 パラノイア的妄想の極致ともいえるこの可能性を本気で信じるとすれば、その時ひとは一…